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アネモメトリ -風の手帖-

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#334

ロボットが来た
― 下村泰史

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うちにもロボットがやってきた。普及型のお掃除ロボットである。買うにはやや高価なものだけれど、何年も放置してきたクレジットカードのポイントが相当貯まっていたので、それを使って来てもらうことにした。

これまで掃除が苦手で、ときどき思いついたようにものを片付けたりはするのだが、それも長く続かず、特に床は掃いてもほこりを巻き上げて移動させているだけのようで、いつもうっすらと曇っているようだった。特に部屋の隅のほうは暗くくすんでいて、何か見えないものがしゃがんでいるような感じであった。お掃除ロボットが来たら、何か変わるかもしれない。そういうそういうものを追っ払ってくれるかもしれないという期待も、どこかにあったのだと思う。

申し込んで数週間、忘れた頃になってロボットはやってきた。ロボットがやってきた、というと歩いて玄関までやってきたような感じがするが、実際には段ボールに入って届いた。家電製品然とした佇まいであった。とはいえ、お金をかけずに結構なものがやってきたので、プレゼントをもらったような気分である。

早速開封して少しいじってみる。ロボットとはいうが、当たり前だがわれわれ脊椎動物とは随分違う形である。床を這い回る。腹部の中央に口がある。ヒレ状の前腕でその口に餌を掻き込む、という動きは、むしろ海底のベントス(底生生物)を思わせるものだ。腹面にいくつかの視覚器があるというのも、そういう種類の生き物っぽい感じがある。

ものにぶつかって方向転換しながら、無心に床を掃き清めていく様子は、なかなか可愛らしくも思える。

意外だったのは、このロボットの到来が私の生活を変えてしまったことだ。この手のロボットが来ると、ロボットが掃除しやすくなるように床にものを置かなくなるということは聞いていた。しかし自分が本当にそういう片付けをするようになるとは思わなかった。もともと家じゅうの床にいいかげんにものが散乱していたのだったが、今はそういうものはない。ロボットのためについつい片付けてしまうのである。

朝起床してまずやることは、布団を押し入れにしまい、床に出ている猫のおもちゃなどを片付け、椅子類をテーブルに上げることである。そして朝食をとりながら、ロボットに掃除をお願いするのである。

ひととおり掃除が終わると、ロボットを開腹してダストボックスを取り出す。毎日掃除しているのにびっくりするくらいの埃がそこには堆積している。この埃の中で寝起きしているのだと思うと恐ろしい。そして埃の量を確認し、ゴミ箱に捨てると、自分で掃除をしたわけでもないのに、謎の達成感があるのである。そしてそれが今日の仕事と明日の掃除への活力になるのだ。

今日の仕事といったが、この掃除ロボットの到来によって、朝あまりだらだらしなくなった。きれいになった部屋できちんと仕事に向かうようになったのである。驚くべきことだが、この小さな機械が、私の生活リズムも心構えも変えてしまったのである。ある意味ロボットに教育されてしまったのかもしれない。

私が在籍している芸術教養学科というところは、スクーリングのない完全遠隔教育が大きな特徴となっている。しかし人と合わずに自分で学習を継続するのはなかなか大変である。そこで私たちは、「芸術教養入門」という科目を通して、学習者に対して学習環境の4つの要素を点検し整えるように言っている。それは「空間」「人工物」「共同体」「活動」というものである。空間というのは、ここに来たらスイッチが入る、というような場所、共同体は学友たちなど、活動とは生活リズムに学びを埋め込む、といったことである。この中で一番地味なのが「人工物(道具)」で、学生のレポートを読んでいてもあまり話題に出てこない。せいぜい新しいタブレットやパソコンを用意した、とかそういう話題である。

しかし今回のロボット経験は、この「人工物」のパワーについて改めて考えるきっかけになった。このロボットは「空間」を整えるのはもちろん、私の生活リズムを変え、マインドセットも変えてしまったのだから。学習に直接関わる文具以外の「人工物」について考えることは、結構いろいろなヒントに繋がるものなのかもしれない。

このロボットがなぜ私の「空間」のみならず「活動」までを変え得たのか。その存在自体が(電源を投入していなくても!)私に片付けを促したり、驚くような量の埃を集めて見せたりというような形で、こちらの生活行動を巧みに刺激するデザインがなされていることに、そのひとつの理由があるかもしれない。もちろん掃除を代行して楽にしてくれることは間違いないのだが、世に溢れる単に作業を楽にしてくれたりする便利グッズとは、ちょっと異なるあり方である。具体的な清掃機能と生活における意味とが、少し離れている感じがある。存在の仕方はシンプルなのに、人の行動に影響を与える、興味深いプロダクトなのだ。ロボットの生活への介入というのは、そういうところに面白さがあるのかもしれない。これはモノとしての新しいあり方なのだろうか。

私はかつて本学の環境デザイン学科地域デザインコースというところに身を置いていたことがある。まちづくりを扱うコースで、同じ学科の建築デザインコースやランドスケープデザインコースに比べて、ソフトな提案なども多かった。とはいえ、街を構成するハード(モノ)のデザインが軽視されることは決してなかった。ハードのデザインの重要性を説き、そうした教育プログラムを推進していた井口勝文先生の言葉は忘れられない。

「最近は「モノ」から「コト」へ、といったような話をよく聞くが、バカじゃないかと思う。なぜなら、人間は道具を使い、モノと対話することで人間になったのだから。」

コミュニティ・デザインや「つくらない建築家」「デザイン思考」といったことが話題になり、ソフト志向が強まりつつあった時代のことである。井口先生は「モノとの対話」といった。ここでは単に機能が問題にされているのではなく、モノが纏う意味性が注目されているように思われる。要は、モノから遊離した抽象論を戒めていたのだと思う。

井口先生も言うように、人類は道具と向かい合って対話しながら社会を進歩させ生活してきた。もしかしたら、この頃は道具はやや無口になってきていたのかもしれない(映像や音に溢れてはいるけれど)。ロボットの生活への介入は、そうしたモノとの対話に新しい次元をもたらすものなのかもしれない。ダストボックスの埃の量に感嘆の声をあげつつ、そういうことを考えたのであった。

最後に蛇足になるが書き足しておきたい。それは今回掃除ロボットが私に施したのは、優れたコーチングだったのではないか、ということである。ロボットから知識を伝授されたわけではないから、ロボットは私にとって教師ではない。しかしコーチではあったのかもしれない。これからは教師としての「モノ」というものも、現状のパソコン類とは異なる形で生まれてくるのかもしれない。それがどのようなものかわからないが、それについて考えることは、生身の教師としての仕事を振り返る、一つのきっかけにはなりそうな気がしている。