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アネモメトリ -風の手帖-

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#106

スコッチ=関西スタイル
― 上村博

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(2015.03.29公開)

関西の近代建築はどことなく優しい。重厚な東京の近代建築に比べると軽快である。もちろんすべてがそうだというわけでもないし、不細工な建物にも事欠かない。それでも、個々の建物、街路の景観、どちらをとっても結構成功しているのではないだろうか。東京のような威圧感ある建物は京都にはない。
この理由はもちろんわかりきっている。「首都」東京ほど国家の威信をかける必要がないし、人口も経済規模も違うのだから、そうした建物がないというより、そもそも必要がないのだ。それでも、乱暴な比較とは知りつつも、武田五一の京都市役所や京大時計台と、丹下健三の東京都庁や岸田日出刀の東大安田講堂を見比べてしまう。街並みにしても、大阪の御堂筋や京都の烏丸通だって、意外なくらいすっきり穏やかな景観を作っている。四条烏丸から銀座四丁目に来るとずっしりと重々しい空気を感じてしまう。こうした違いには、先に挙げた経済規模とか首都のモニュメンタルな景観とか以外の理由もあるのではないだろうか。そしてまたそれは京阪のはんなりした空気というだけでもないのではないか。

先日、ネットでライヴ配信の授業に出講(出演)することがあった。全体の構成上、専門外だが、「20世紀のモダンデザインと日本」というお話をした。放送そのものはまさにライヴ感たっぷりで、感想、質問、茶々のコメントが続々と寄せられるなか、60分の授業時間はあっという間に終了してしまった。通常の授業もライヴと言えばライヴでいつものことだし、年齢や職業がさまざまな受講生というのにも慣れている。しかし、圧倒的に時間が短い。講義途中の質問対応などをしていると、みるみる時間がなくなってしまう。これは講義というより、むしろ休憩時間に学生たちと立ち話をしている感覚で、それはそれで実は講義よりも有益だったりするのだが、結局、特に後半に予定していた話題のいくつかを端折らなくてはならなくなった。
ライヴなので終わってしまうと清々するかと思ったが、悶々とした気持ちが残る。いくつか補足したくて仕方がない。植物学とデザイン。モダニストたちの民芸運動評価。アアルトとペリアンにとってのお風呂。型而工房とタタミとモデュロール。どうせ短時間の話だったので、それはそれで完結させないといけないかもしれない。しかし実際に配信された内容より話したかったことだったりする。しかもどれも補足ではすまないだろう。それぞれ別途しっかり議論しないといけない。
というわけで、ここでは補足として、あるいは補足というより蛇足的な空想を記したい。それは、関西とスコットランドの関係である。

配信授業では、日本とスコットランドに直接的な交流があったことに触れた。実際、幕末からすでに日本からスコットランドに渡った留学生がいるのである。長崎の観光名所となっているグラバー邸の主、トマス・グラヴァーはスコットランド人だが、彼の手引きで渡欧した「長州ファイブ」のひとり、山尾庸三はスコットランドのグラスゴーで造船を学んだ。グラスゴーは当時世界最大の造船所を持ったイギリス屈指の(つまり世界屈指の)工業都市で、大学にも特色があった。グラスゴー大学のウィリアム・ランキンは、19世紀後半の熱力学の権威であり、それまで大学の学問としてあまり評価されていなかった工学を積極的に推進し、工学を修めて学士号を出せるようにはからった(ただし彼がなくなった直後になる)。そして今の日本で「工学士」という学位があるのは彼のおかげである。日本では1870年代に今の諸大学の工学部の祖先にあたる工部大学校ができるが、そのときのお雇い外国人教師は、ランキンによってグラスゴーから派遣されたヘンリー・ダイアーである。殖産興業に力を入れる近代日本にとって、グラスゴーは恰好の留学先であった。明治の日本で、「マッサン」ひとりがスコットランドに行ったわけではないのである。留学生にはなかなか優秀な人もいたようで、そのひとり渡邊嘉一は卒業後、当時最先端のフォース鉄道橋建設の現場監督を任された。そのようなことで、グラスゴー大学のほうも日本人留学生を歓迎してくれる。1901年には、ダイアーの働きかけで、通常は大学が留学生に課す外国語(英語以外)の試験としてフランス語かドイツ語を選ばないといけなかったところ、そこにもうひとつ日本語という選択肢が付け加えられることになった。ところが、もちろんそのときグラスゴー大学には日本語の試験問題を作ることのできる教員はいない。その日本語の試験を作ったのが、当時ロンドンにいた夏目金之助(漱石)である。

そのグラスゴーには、日本の美術工芸品のコレクションがあった。1878年、日本の博物局と互いにコレクションの交換が行われ、千点以上の工芸品が到着した。またグラスゴー生まれでロンドンで活躍したデザイナー・デザイン理論家のクリストファー・ドレッサーが日本で蒐集した品物の一部もグラスゴーに来た。そのころのグラスゴーは新興工業都市で、おそらくなりふり構わないごみごみした街だったろう。それでも、あるいはそれだからこそ、新しい都市生活に美しい住環境をもたらそうとする運動も起きたのだろう。そのひとつのあらわれは、他のヨーロッパの都市と同様の日本美術の流行である。日本趣味、ジャポニスムは、ただ東洋風のモチーフを取り入れるということにはとどまらない。白人女性がキモノを着て絵のモデルになるということだけではないのである。いかにもオリエンタルなモチーフだけでなく、日本の美術品、工芸品の独特の意匠が刺激となって、新しい装飾品、家具、建築のデザインを作り出そうとする動きにもつながっている。ただの豪華な飾りに満足するのではなく、日本の品物に見られる単純な形態、そして斬新な意匠が注目されたのである。グラスゴーでは、むしろこの後者のほうが顕著である。アール・ヌーヴォーのスコットランド版とでもいうべきグラスゴー・スクール(グラスゴー派)にそのような特徴を与えたのが、The Four (四人組)と呼ばれたデザイナーたちである。チャールズ・レニー・マッキントッシュ、その妻であるマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、その夫であるハーバート・マクネールは、共に1900年前後のグラスゴーの新しいデザイン運動を主導する。
そしてちょうどその頃、ドイツの建築家ヘルマン・ムテジウスがロンドンにいた。文化担当の駐英外交官であったが、主な仕事はイギリスの最先端の情報をドイツに伝えることである。そのムテジウスがグラスゴーを訪れ、マッキントッシュたちの仕事に強く関心を持ち、彼らをドイツ語圏に紹介する。また彼の仲介で、グラスゴーの四人組は1900年にはヴィーンの分離派展に参加する。マッキントッシュらの仕事はグスタフ・クリムトやヨーゼフ・ホフマンたちヴィーン分離派に強い印象を与えた。日本趣味の影響は勿論すでにヴィーンにあったが、グラスゴー・スクールを知ることで、なおさら間接的な影響も受けたであろう。
同じ頃、イギリスに渡った日本のデザイナーがいる。それが武田五一である。武田は漱石と同じ頃にやはり官命で渡航して、欧州の工芸デザインを視察していた。彼は到着した1901年にグラスゴーを訪ねている。それは勿論、グラスゴー・スクールの仕事を見るためである。その後パリやブリュッセルも訪れるが、ヴィーンにも立ち寄る。武田は日本に帰国後、京都の高等工芸学校(今の京都工芸繊維大学)教授となった。その後京大で初めて西洋美術史を教えたり、建築学科を創設したりする。関西で近代的なデザインを制度的に教えはじめた最初の人物である。彼の親しんだグラスゴーやヴィーンのデザインの影響を彼の作品に認めることは容易であるし、本人も分離派への愛好を隠さない。さらにまた京都には、武田五一の一世代ほどあとになるが、もうひとり上野伊三郎という人物もいる。上野は1920年代にドイツとオーストリアで修業し、ヨーゼフ・ホフマンの事務所で働いていた。帰国後、ヴィーンで知り合ったリチ夫人とふたりで、京都で建築事務所を開き、さらには戦後に京都市立美術大学の教授となる。京都の美術・デザイン関連の教育機関はグラスゴー、ヴィーンとの縁が結構強いのである。
武田や上野をはじめとするこうした繋がりもあって、京阪ではゼツェッション様式(分離派スタイル)を好む傾向が強いのではないだろうか。そしてそれが関西の建築物に居丈高な歴史主義でもなく、また無機質なモダニズムでもない、ある種の柔らかさと人間らしさの風貌を与えているのではないか。東京の伊藤忠太も、東洋趣味のゼツェッションは東洋に受け入れられやすいと言ったし、実際に関東にもゼツェッションの建物はいろいろとある。しかしそこではどうしてもゼツェッション以外のモダン建築が目立ってしまう。京都では関東大震災や東京大空襲を経なかったことで20世紀のバリバリのモダニズムに乗らなかったということもあろうが、それに加えて、グラスゴー・スクール、また広義のゼツェッションが近代建築の草創期に影響したということは大きいだろうし、またそうした自然の有機的な要素を組み込んだ軽快な意匠も関西の好尚に合致したのだろう。もしあえて名付けるなら、スコッチ=関西スタイルとでも言えるのではないだろうか。

そもそもジャポニスムの重要な媒体となった浮世絵は、西洋の版画の影響を受けている。西洋で生まれた遠近法を18ー19世紀の日本人が独特の解釈を加え、あっと驚くようなグラフィックを作り上げた。それが西洋に渡って注目される。その結果のジャポニスムは、フランスやベルギー、スコットランド、オーストリアで新たに見事なデザインへと転化する。そしてまたそれを学んだ日本のデザイナーが、日本の風土のなかで自分たちの近代デザインを作り上げてゆく。このような絶え間ないデザインの往還運動がそれぞれの地で実に豊かなものを生み出してゆく。デザインに偏狭なナショナリズムは通用しない。インターナショナルな運動の中で、はじめてナショナルな面白さが際立って来るのである。