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アネモメトリ -風の手帖-

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#105

ここだけの歌
― 下村泰史

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(2015.03.22公開)

馬頭琴という楽器がある。ご存じの方も多いだろう。「スーホーの白い馬」の物語でも有名な、モンゴルの楽器である。モンゴルではモリンホールというらしい。馬頭琴とは日本や中国での名であるらしい。琴という字が入っているが、日本の箏のようにつまびかれるものではなく、バイオリンやチェロのように、弓で弾かれる擦音楽器である。竿の上端のヘッドの部分に馬の頭が彫刻されることが多く、この名があるようだ。実際には骨が使われるのは稀で、ふつうは木でできている。弦はバイオリンのような金属弦ではなく、馬のしっぽの毛を束ねたものが使われる。弓と一緒である。もっとも最近は細手のテグスで代用されることも多いと聞く。
今ふつうに見られるものは、表面もチェロ等の同様木の板でfホールがあったりする。バイオリンの仲間と同様、内部には魂柱を持っている。「草原のチェロ」と言われることもあるらしいが、まさにそんな太くて芳醇な音がする。音量も豊かで、ダイナミックな演奏が可能だ。伝統楽器であるが、近年は大人数の馬頭琴オーケストラなども編成され、「芸術的」に洗練されているという。この馬頭琴は、モンゴル共和国だけでなく中国の内モンゴル地域にも伝えられている。
モンゴル共和国の西隣りにトゥバ共和国という国がある。今ははロシア連邦に属し、言葉その他いろいろ異なるが、モンゴルのホーミーに似た倍音唱法ホーメイが伝えられるなど、共通したところも多い。
この国には、「イギル」という楽器が伝えられている。これは馬頭琴と似た構造の二弦の擦弦楽器である。馬頭琴より少し小ぶりで、ボディの形が異なっている。馬頭琴が台形の角ばった形をしているのに対し、イギルが紡錘形というか、全体をみるとしゃもじのような形をしている。実際、しゃもじに革を張ったような構造をしている。木でできた大きな共鳴胴や魂柱を有する馬頭琴に比べると、音は小さい。また馬頭琴ほどしっかりした芯のある音色でもない。むしろ、はっきりした音程を持たない尺八のムラ音のような音に妙味があったりする。
このイギルは馬頭琴の原型を留めるものだという。家族や近所の小さな輪の中で演奏されていたものが、モンゴルや中国においてホールで演奏される大文字の芸術になるにしたがって、西洋の擦弦楽器の影響を受けて変容していったのだという。より大音量でよりクリアな音色になり、ステージから大人数の聴衆に音楽を届けるのに適した楽器になっていったのだ。この演奏と聴取の在り方は私たちがよく知っているものだ。では、イギルが演奏されていたちいさな輪は、音楽の経験の場としてはどうなのだろうか。
今日の日本での実演音楽の聴取のされ方を考えると、ドームにせよライブハウスにせよ、少数の演奏家が大人数の聴衆に向かって、多くの場合電気的増幅を使って演奏するというのが一般的であろう。クラシックもロックもそのあたりはあまり変わらない。そして馬頭琴という楽器も、今はこの環境に適応した進化を遂げているというわけだ。こうした聴き方というか、音楽の場の形の成立には、さまざまな社会的なものが関わっているが、そのことについてはひとまず措いておく。ここでは音楽の場の形について考えたい。こうした「コンサート」の形以外のものを、わたしたちは想像することができるだろうか。
例えばボサノバという音楽がある。シンコペートするサンバのリズムと複雑なコード、ささやくようなボーカルスタイルが特徴だ。いろいろなアレンジがなされるが、ギターによる弾き語りスタイルが最もポピュラーだろう。ちいさな音の音楽なのである。この音楽をステージからマイクで届けられるのを聴くのと、同じソファで聴くのとは、まったく違った経験であるはずだ。
前にも「口腔内の虹」で取り上げたことがあるが、口琴という楽器がある。この極めて音の小さな楽器の響きは、スピーカーを通すと失われてしまう精妙さを持っている(もっともスピーカーを通すことによって生まれる別の面白さもあるのだが)。3人くらいで輪になって聴き合いながら鳴らしていくと、倍音同士が作用しあって、それぞれの楽器から出ているのとは別の響きが空間の中で生まれてくる。多くの太鼓を輪になって叩くドラムサークルや、ガムランのアンサンブルでもこれに似た現象が起きる。音と音の間から「声」や「歌」のようなものが聴こえてくるのである。何度経験しても不思議で神秘的な印象を受けるが、別に霊魂が歌っているわけではない。倍音の重なりあいの脈動から音源のない音が空間の中に生まれてくるのである。これは各チャンネルが独立に制御されミックスされて左右のスピーカーから出てくる今日のPAシステムからは排除されてしまう要素である。また各楽器の音色がひと通りに定められ和声によって響きあいが定義づけられている西洋音楽においても排除されてしまう要素である。
少数の専門家が多数の聴衆に向かって演奏する音楽と、ここにいる人たちが共有する音の輪のようなものである音楽。前者が市民社会あるいは大衆社会の音楽であるとするなら、後者はコミュニティの音楽、コモンズの音楽なのかもしれない。集う人々によって空間が生まれ、その空間が音の生成、ひいては音の経験の在り方に直接に関わっている。
前者のタイプの音楽は、音楽は客観的に記述されうるという考えを持っている。それは記譜によって、あるいはコード進行によって一定の客観性をもって記述される。されにはシーケンスデータとして、あるいはPAシステムのセッティングの数値として、それらは記述され、異なるときにあるいは異なる人々によって再現される。もちろんそれぞれライブならでは一回性はあるのだが、それは事前に共有され予期されているものと「つかずはなれず」のものである。その「つかずはなれず」の「間」を味わうのがこの手の音楽の妙味の一つであろう。一方後者の音楽は、場において生成する音楽である。既存の曲を演奏する場合であっても、「ここだけの音楽」として経験されることに妙味がある。こうした「ここだけの音楽」の場ではむしろ自由で即興的なものが似つかわしい。
前者の音楽は、白い壁のあるギャラリーで鑑賞する美術作品に似ているところがある。後者の音楽は、体験型のワークショップに近いかもしれない。
「作家」の「作品」を「鑑賞する」という近代的なフォーマットを出て、非作家的だったり集団的だったり、あるいは地域や的な文脈とするようなさまざまな創造的な営みを丁寧に見ていこうとするのが、本学の「芸術環境」の考え方だとするなら、イギルと口琴の即興のような「ここだけの音楽」は、まさに「芸術環境」的なことばによってしか語れない音楽なのかもしれない。
たのしい「ここだけの音楽」は、音楽の専門家と産業化が進む中で、不当に軽視されてきたのではなかったか。それは偉い少数の専門家によるものではなく、権威づけられることがなかった。しかしこのようなコミュニティの音楽によってしか得られない、かけがえのない音の経験があるのは間違いのないことであり、これが忘れられることは音楽文化全体の貧化につながるものだ。
「ここだけの音楽」の場が豊かなものであるためには、そこでの音楽の経験が質の高いものであることが不可欠である。そのような場をつくることは、これまで音楽の専門教育の対象とはなってこなかった。しかし、こういった場とそれに関わる音楽家は増えてきているように思う。ドラマ「あまちゃん」の音楽を担当した大友良英が関わっている「音遊びの会」はよく知られている。
京都造形芸術大学のある京都市左京区も、そうした「場の音楽」が急速に盛り上がりつつある場所である。東日本大震災を機に京都に移り住んできたアーティストたちが中心となって、地域に根ざした活動が展開されつつあるのである。野村誠、片岡祐介、スズキキヨシ、鈴木潤といった人たちが、つながったり離れたりしてさまざまな場を創り出している。そしてその種を受け取った人たちがまた動き出そうとしている。
カラオケが普及する以前はもっと管理されないかたちで歌は人々の間に存在していた。青年会の歌などを、地元の人が作ったりもしていた。しかしそうした暮らしの中の音楽は、専門化と産業化の中でかき消されていった。新しい「ここだけの音楽」は、そうした暮らしの歌をより自由な新しい形で恢復しようとするものなのだと思う。そのような場と音楽がどの町どの村にも生まれていけばいいと思う。そんな場所から歌が生まれ続けるなら、レコード会社が潰れようが、カラオケボックスがなくなろうが、音楽は鳴り止まないのだ。

参考URL
「空を描く/口腔内の虹」
https://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/?sora=6188
「音遊びの会」
http://otoasobi.main.jp/
「あいのてさん」
http://ainotesan.kenkenpa.net/toppage.html
「野村誠の作曲日記」
http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/
おんらく市場(スズキキヨシ)
http://kiyoshism.com/

写真:イギルを演奏する和田史子さん(瓜生山オーバートーン・アンサンブル)