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アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

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#305

立食大吉
― 上村博

蕎麦見本

(2019.02.03公開)

春が立つ。もう立春である。人や生き物ならぬ季節の変わり目に対して「立つ」というのは、やはり時間の区分として、かっちりと目に着くものとして明確に記しづけたいからだろう。人間が二足歩行をするようになって久しいが、それでも「立つ」には力が要るし、意欲も要る。人間は放っておけば、ごろんと横になるのがやはり楽だ。立つというのは、立派であって、目立つことである。「立つ」という状態にこそ、意志の強さも行動の敏速さも伴うだろうし、反対に座したり寝たりでは、惰性に委ねる暢気さがつきまとう。食事の姿勢もそうだ。いつ何が起きるかわからないなら、機敏に対応できる姿勢が良い。立ったり、あるいはせめて中腰で食べる必要がある。はなはだ落ち着かないことだが、落ち着いていては、敵が来たり、何かに間に合わなかったり、とんびにさらわれたりすることもあろう。反対に、ゆっくりすわって食べるのは、まことに余裕があり、さらには優雅である。寝そべって食べるのは、いまは下品かもしれないが、古代のギリシャ・ローマ人たちの宴会では寝そべって飲み食いするのが普通だった。ゆとりあることは古来、抜きんでた身分の証である。ぴったり身についたズボンやシャツが蛮族の衣裳であるのに対し、中国でもローマでも貴族たちはゆったりした衣服に身を包んだ。
ところで、関東のかたは気づかないかもしれない。立ち食い蕎麦屋さんはどこにでもあると思ったら大間違いだ。東京の駅前には必ず何軒もみかける立ち食い蕎麦屋さんは、京都ではほとんど存在しない(皆無ではない)。関西にも勿論、鉄道の駅の中には立ち食い蕎麦を見かけることがある。「阪急そば」はその代表だろうし、いまはどうなったのかわからないが、かつて京阪電車にも「比叡そば」があったと記憶している。福井には「今庄そば」がある。しかし、それらに立ち食いうどん店も足したとしても、東京の街角に当たり前のようにある立ち食い蕎麦店の密度に比べて、あまりに少なすぎる。江戸の蕎麦屋は、『守貞漫稿』によれば「毎町一戸」あったそうだ。
これは、関東の蕎麦、関西のうどん、という東西の食の嗜好の差のせいなのだろうか? それは一つの理由かもしれない。たしかに蕎麦屋さんは少ないだろう。しかし、京都に大阪にも美味しい蕎麦屋さんはあるし、蕎麦好きも結構たくさんいる。それに、うどんや丼物のおまけのような存在ではあっても、街角の定食屋さんのメニューに蕎麦はしっかり掲げられている。蕎麦が少ないのではなく、立ち食い蕎麦が少ないのだ。それではファストフードが根づいていないのだろうか? 勿論そんなことはない。京都・大阪に限らず、至るところにハンバーガーショップも牛丼屋もカレー店も進出している。ところが数あるファストフードのなかでも、こと蕎麦に関しては寂しい限りだ。うどんのチェーン店は繁盛しているのに。蕎麦、うどんの食文化の違いでもなければ、手軽な外食産業の有無でもないとすると、ほかに一体何が理由だろう?
おそらく、その理由は立ち食い、あるいは外食の受け入れ時期ではないだろうか。立ち食いが根づいた土地とそうでない土地の差ではないか。かつて新興の大都市江戸・東京に出てきた独身男性たちが気軽に食べられる料理として、すし、てんぷら、蕎麦の立ち食いがあった。しかし同じ都会とはいえ、西の京阪ではそんなにうようよ腹を空かした男どもはいなかったのだろう。お店の料理といえば、持ち帰り(テイクアウト)や仕出し(ケータリング)は盛んだったが、ついに街中で蕎麦を啜り、天ぷらをつまむような風景は流行らなかった。その情況が続くなか、やがて近代に入り、大阪が勤め人でごった返し、京都も学生で溢れかえるようになってからは、すでにほかの外食メニューがふんだんに登場していた。それらが街行く人の舌を奪っていくなか、立ち食い蕎麦は、関東圏という例外を除けば、外食のなかで存在感を示す機会をとうとう逸したのではあるまいか。
—— あぁ、あのひとおべんとたべたはるわ。むかし、フランス留学から京都に帰ってきたばかりの知り合いがそう言われた。彼女は京都人だが、長らくパリの学校で文学を研究していて、すっかりあちら風の生活に染まっていた。京都にはパン屋さんが多い。そしてなかにはパリパリのフランスパンを売るお店もある。焼きたてのフランスパンは、握りたてのおにぎりと同様、まことにおいしい。彼女はホカホカのフランスパンを買って、我慢できずにかじりながら歩いていたそうだ。パリの街路ならよくある光景だ。しかし、これほどにもパン屋さんが多く、またこれほどまでにフランスパンを愛好する老若男女の多い京都でも、やはり不思議に見えたのだろう。ああ、あのひと歩きながらパン食べてるじゃないの。ではなく、あのかたはご昼食を召し上がっていますね。という婉曲な呆れ方は都会の優しさだろうが、異質なものをつきはなした物言いには変わりない。しかし、京都では奇妙な風習としても、立ち食いが野蛮な田舎者の風習と言いたいわけではない。むしろさらりと自然に買い食い、立ち食いができるのは繁文縟礼の逆を行く洗練ではないか。立ち食い蕎麦は、簡易な調理法で優れた食品を提供する素晴らしい文化である。むしろ世界中にみかけるチェーン店が増えるほうがよほど文化的に残念であり、この際、あらためて関東の都市の文化を取り入れて欲しい。とりわけ街中を始終移動する働き手にとっては貴重な都市環境だ。
さきほど、独身男性の料理と書いてしまったが、今や女性がひとりで蕎麦を食べている風景も珍しくない。立ち食いというより、座って食べられるお店がほとんどになったことも理由だろう。数年前、市ヶ谷で授業をしていたとき、お昼に富士そばに入ったら、ちょうど隣に女性の受講生がいた。ほんと、これ、おいしんですよね。と言いながら、冷やしタヌキそばをずるずると召し上がっていた。また、まさにこれを書いている数分前にも、新横浜の立ち食い蕎麦屋さんにいたのだが、どこからか、蕎麦を啜る音とともに、ふーんっ、ふーんっ、とケモノのような声が聞こえる。あたりを見回すと、となりでスーツ姿の若い女性が唸りながら天ぷら蕎麦を食べていた。お店まで走って来て息が切れたのか、あるいは蕎麦がよほど美味しかったのか、すごい勢いである。フーンッ、ズルズル、フーンッ、ズルズルズルズルと、ものの数分で食べ終えて出て行った。ちょいと蕎麦を手繰る、などという小じゃれた嫌みは全く無い。あっぱれである。これでこそ立ち食い蕎麦だ(彼女も座っていたが)。