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アネモメトリ -風の手帖-

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#365

言葉の宛先
― 下村 泰史

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二人で話しているとき、その言葉はもう一人のその相手に向けられている。その言葉の宛先は明らかだ。
大教室で講義しているとき、zoomのカメラに向かって話しているとき、宛先は少し曖昧になる。ひとりひとりの固有の人を超えた、一般的な人に宛てての言葉になってくる。そういう一般的な人に親しげな表情で語りかけることができる人はすごいと思う。私は頑張ってはいるけれど、なかなか慣れないほうである。

というのは話し言葉のことであるが、書き言葉にも同じような宛先問題というのはある。手紙や電子メールといったメディアの場合、送信先は明らかである。こういう通信文において宛先というのは、もっともはっきり現れる。雑誌の記事や書籍、論文といったものになってくると、やはり読み手は特定の誰かではなくなってくることが多い。誰かに読んで欲しくて、ということはあると思うが、それでもその発表形式を選んだ時点で、それは一般の人を想定したものになってくるのだろう。
書き言葉は、社会において言論をつくっていくものでもある。そこでは、一定の公共性のある書き方というのが大事になってくる。ここでは、誰が読んでもなるほどと思えることが大事であり、そのためには根拠を踏まえ論理的に書くことが求められてくる。

明らかに自分宛に発された言葉は、話し言葉であれ聞き言葉であれ、自分自身として受け取ることになるだろう。真正面からのこともあれば、少し斜めにということもあるかもしれないけれど。一般的な聴衆や読者に向けられた言葉の場合は、受け取る方はどういうことになるのだろうか。受け取り側は、「これは一般的存在に向けられた言葉だな」ということを数行目で悟ると、できる場合には「根拠を踏まえ論理的に聞き、読む人」に変身するのかもしれない。できない場合には、スルーするのかもしれない。

ある本、ある文章を、自分宛に発されたわけではないのに、真っ直ぐに自分に書かれたものであるかのように受け取ってしまう、という場合もある。病的な妄想という場合もあるかもしれないが、書物との奇跡的な出会いというのはだいたいそういう形をとるのではないか。私にもそういう経験がある。中路正恒責任編集による本学テキスト『地域学』の伊藤静雄やヘルダーリンが語られるくだり、それから倉田良成の散文詩集『東京ボエーム抄』との出会いがそうだった。客観的な内容というよりは、その一連の文が名付けようとしている謎の全体のようなものが、共振するような形で入ってきたのだった。
ここでは、差し出した側は宛先に指定していないのに、受けて側のところで突然強い宛先性が発現するということが起きている。受け取る側も普段の自分から変身した、何か励起された状態になっているのだが、それは「根拠を踏まえ論理的に聞き、読む人」モードではない、なにかもっと別の、直観的なモードに入っているのだろう。簡単に言えば「自分ごと」としての共振なのだと思うが、何によってそれが引き起こされるのかは、私にはまだよくわからない。

自分ごととして飛び込んできたものに揺り動かされる経験がほかにもあった。
詳しくは言えないのだが、ある依存症関係の家族会に参加させていただいたことがあった。こうした自助グループの原則というのは、そこで出た話題はそこでだけのもので、よそでは言わないこと、全員フラットな関係、言いっぱなし、聞きっぱなし、というものだ。そのフラットさはいわゆるワークショップのそれと似ているが、建設的で創造的なわかりやすいアウトプットが求められていないところが大きく異なる。では、それが参加者になにも与えないのかというとそんなことは全然なくて、名も知らぬ他の参加者の経験談はまっすぐに胸に飛び込んできて、涙なしには聞けないものだ。さまざまな言葉が、名も名乗らぬ者の輪のなかでシェアされていき、その日からの当事者との暮らしの中で反響していくのだ。名のられないこと、ここだけの話であることが、語りを自由でつよいものにしている。
この場が興味深いのは、ひとりひとりのエピソードは強烈な具体性と固有性をもっているにも関わらず、個人の詳しい属性や個人名とは関係づけられないところだ。ここでは一般的だったり普遍的だったりするものと、固有的な強度のある語りとが、特有のかたちで結びついているのだ。
この場において、話す側は宛先はどのように意識されているのか。それはその「場」に宛てられているのだろう。そして受け取る側にとっては、間違いなく自身に関わるものとして飛び込んでくるのである。

その場に放り込まれると、受け取られる直前に、その人宛ての言葉になる、という言葉のありようがあるようだ。これは、多数の学生を相手にしている通信教育の教員にとっても気になる言葉のあり方である。これは人生に効くのだ、という確信をもって添削文をほぼ無限と思われるような時間をかけて書くのだが、それをわが事として受け取ってもらえるようにするにはどうしたらいいのだろうと、いつも考える。
シラバスも課題も添削文も、「根拠を踏まえた論理的な言葉」で書かれている。それだけでは受講者を励起状態にもっていくことはなかなかできないのだとしたら、その周辺のコミュニケーションの場について思い至らざるを得ない。そこではさまざまな喩と直観とが動き回っていて、投げ込まれた一般的な言葉が固有的な輝きを持つものに変換されてしまうのだ。そうした場はどのように生み出されるのだろう。半ばデザインにより、半ば偶発性により生まれるのではないかという気もする。いずれにせよ、芸術大学である本学には、そうしたもやもやした霊感のようなものはそこここに漂っているはずだ。そういったものを、学びの渦の中で活かしていきたいものだと思う。そのためには、私たちもほんの少し神秘主義者である必要はあるのかもしれない。