アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

最新記事 編集部から新しい情報をご紹介。

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#351

戦争と芸術
― 加藤志織

CD18F205-26D2-4CD2-BE1B-B821CC8BB3DA

ロシアによるウクライナ侵略という暴挙が2022年2月に始まった。一方的な主張に基づいた武力による現状変更は断固として許されるものではなく、ロシアに対する強い非難が今巻き起こっている。

20世紀後半以降、世界各地で何度となく武力を用いた争いが発生し多くの人命が失われてきたが、今回の戦火は第3次世界大戦に発展する可能性もあることから、世界中がその成りゆきを大きな不安を抱きながら見守っている。連日、テレビ・SNS・動画サイトなどで報じられるウクライナ各地の爆撃を受けた様子や戦闘を避けて逃げ惑う人びとの姿が繰り返し流されている。そうした画像をただ受け取ることしかできず、直接的な手助けを何らすることができないことに、われわれはただ自身の無力さを嘆き、現在も拡大する戦禍の深刻さと事態の複雑さを痛感するのみである。

戦闘の当事者であるロシアとウクライナはむろん、ウクライナを支援するアメリカやイギリスといったNATO加盟国も含めてさまざまな国が情報活動を現在活発化させている。この中にはよく知られたアメリカのCIAやイギリスのMI6といった情報機関のお家芸、スパイなどを介しておこなわれる諜報活動だけではなく、世論の誘導などを目的としたプロパガンダも含まれる。今回も、すでにウクライナ東南部に位置するいわゆるドンバス地方においてロシア系の住民が迫害を受けているとされる真偽不明な映像、さらにはウクライナのゼレンスキー大統領が国民に降伏を呼びかけるディープフェイク動画までが登場している。

こうした情報操作・プロパガンダは敵対勢力の混乱や中立的な立場の第三者を味方につけるために発信されるだけではなく、自国民の目を欺き戦意の高揚を図る目的でも流布される。われわれが目にし、耳にする情報とはまったく正反対の内容が現下のロシアでは真実として国民に伝えられている。インターネットやスマートフォンの普及により、すべての人が正しい情報を同時に共有できるとつい考えてしまうが、実際にはそんなに単純な状況ではなく、先に言及したゼレンスキー大統領の偽動画のような、AIを使ったディープフェイクが可能になったことにより、むしろ情報の取り扱いは今後より難しくなっていくだろう。ソーシャルメディア上に溢れ出すおびただしい数の扇情的な画像や映像の真偽と意図を瞬時に判別・理解することなどもはや個人には無理なのかもしれない。

日本人にとって、戦争とプロパガンダというと、第二次世界大戦中に陸軍・海軍が従軍画家に描かせた戦争画が想起されよう。藤田嗣治、小磯良平など、昭和を代表する画家がこれに携わった。とくに終戦後には芸術が戦争に利用された、あるいは芸術が積極的に戦争に関与したとして問題視され、非難を受けることになった。しかし、戦争を称賛・記念するような絵画・彫刻・建築は洋の東西を問わずこれまでに数多く制作されてきた。戦争にまつわる記録は常に国家の重要な記憶なのだ。芸術を利用したプロパガンダは、侵略する側だけではなく、侵略を受ける側、あるいは反戦を支持する者たちにも同様に用いられる。あのパブロ・ピカソの名作《ゲルニカ》も、スペインの内戦に際して、反乱軍のフランシスコ・フランコ総帥を支持するナチス・ドイツ軍が、スペイン・バスク州の都市ゲルニカでおこなった無差別爆撃の非人道性や残虐さを示したものである。

フランコ総帥と敵対するスペイン共和国を支持する絵画、反戦を示した傑作として今でこそ名高い本作ではあるが、発表当初の評判は必ずしも芳しいものではなかった。ピカソの意図はキュビスムやシュルレアリスムといった前衛的な表現手法を使って戦争という暴挙の愚かしさ恐ろしさを示すことにあったと考えられるが、写実的な描写などを用いたより直接的でわかりやすいメッセージを期待した人びとも存在したのである。このスペイン内戦では、《ゲルニカ》と同じくらい有名な写真作品が20世紀を代表する写真家であるロバート・キャパによって撮影されている。それは、1人の共和国側の兵士が銃撃を受けた瞬間の姿を捉えた《崩れ落ちる兵士》である。これは反フランコ・反ナチス・反戦争の写真として写真史の1ページを飾る名作となった。しかし、この作品には撮影地や被撮影者にかんする情報など不明な点が多く、さらにはキャパ自身も本作にかんして多くを語らなかったことから、その真贋論争、すなわち「やらせ」疑惑についての議論が長く続けられてきた。20世紀末からの研究で明らかになったことを総合すると、この稀代の名作はどうやら、兵士の銃撃という実際におこったできごとを撮影したものではないらしい。

もちろん、反ナチス・反戦争ということがまずは大事であり、その前では事実かフィクションかという問題はあまり重要ではないという考え方も成立するだろう。とはいえ、90年近く前に、しかもフェイクの疑いの濃い写真が戦争を伝える際に利用されていたことは注目に値する。われわれは、戦時だけでなく平時についても、その情報の出どころや真偽にかんする評価については、常に一定の留保をしなければならない、そういうことであろう。

また、戦争につきものの戦闘で傷ついた人びと(兵士・民間人問わず)のショッキングな画像や映像をどのように扱うのかという問題も存在する。インターネット上では、剥き出しの暴力によって蹂躙された人の姿が流される一方で、少なくとも日本のテレビでは犠牲者の遺体などはあまり映さないような配慮がなされている。戦争の画像・映像を可能な限りありのままに伝えることがよいのか、それとも一定の合理的配慮というフィルターをかけることが妥当か、その議論はわかれよう。こうした戦争と画像・映像との関係についてはスーザン・ソンタグが『他者の苦痛へのまなざし』において論じているが、あらためて考えてみる必要性があろう。

ウクライナの国旗の青は空(あるいは水)、金色は小麦(あるいは火)を表すという。青天の下、再び彼の国の大地が平和と小麦で満たされることを願う。