アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#273

靖国神社能楽堂
― 森田都紀

靖国神社能楽堂

(2018.06.24公開)

先日、所用のため東京外苑キャンパスから九段下へ向かった。東京メトロ九段下駅から靖国通りを上がっていくと、右側に、靖国神社の高さ25メートルの大鳥居が現れる。明治初頭に建立された靖国神社は、境内に回遊式の神池庭園などがあり、近代の日本文化をいまも伝える場所である。
その境内の、桜の木で覆われた一隅に、靖国神社能楽堂という野外舞台があるのをご存知だろうか。この能楽堂では、毎年4月上旬に「夜桜能」が催されている。私も幾度となく足を運んでいるが、薪の炎による薄明かりのもと、桜の花びらが眼前を散るなかで行われる能は幻想的で、格別の趣がある。靖国神社能楽堂は九段能楽堂とも呼ばれるが、前身は、明治14年(1881)に東京府の芝公園内に建立されたいわゆる「芝能楽堂」である。
歴史を振り返れば、能は、江戸時代まで幕府の式楽として保護されていたが、明治維新を経て、保護基盤を失った。多くの能役者は廃業や転業を余儀なくされ、廃絶する流派もあとを絶たなかった。そのため、能を後援する目的で、岩倉具視を筆頭として華族らが「能楽社」を設立し、明治14年(1881)に芝能楽堂を創建した。能楽社の趣旨は「英照皇太后の御教養のため」「方今能楽は衰微しているがその技の練達者はまだ世に存しているので、今その者らを鼓舞して能楽の維持保存に資するため」とされている。じっさい、皇太后は明治30年(1897)の崩御に至るまでに30回以上も行啓している。そして、芝能楽堂の建立をきっかけに、明治維新以来各地に散っていた能役者が集まり、ともに芸を磨いていった。能楽社への登録希望者もすぐに百名を越えたといい、能は復活へと舵を切る。すなわち、芝能楽堂は、明治初頭に能の復興の拠点となった記念碑的な能楽堂なのである。
一方で、復興とともに、各流儀が次第に息を吹き返し、各地に能舞台が建設されるようになると、芝能楽堂での活動は減っていった。さらに、修繕費や税金などの負担も重くのしかかり、経営が苦しくなる。こうして明治35年(1902)、芝能楽堂は靖国神社へ奉納・移築された。ここに、現在の靖国神社能楽堂が始まる。
大正12年(1923)の関東大震災により多くの舞台が焼失したなか、靖国神社能楽堂は諸流の活動を支えた。また、第二次世界大戦時も、終戦まで毎月、能の催しが続けられていたという。幸い戦火を免れたため、時代を越えて能の発展へ寄与してきた姿をいまも窺うことができる。舞台正面の梁の上には、「能楽」の扁額が掲げられていて(※冒頭の写真参照)、能楽堂の創立に携わった明治の人々の熱い思いが伝わってくる。ちなみに、扁額の揮毫者は旧加賀藩の12代藩主・前田斉泰である。

靖国神社(能楽堂):
東西線/半蔵門線/都営新宿線「九段下駅」より徒歩5分
中央線/総武線各駅停車「飯田橋駅」、「市ヶ谷駅」より徒歩10分

参考文献:
池内信嘉『能楽盛衰記』上・下、東京創元社、1925~26年。
小林保治・表きよし編『能舞台の世界』勉誠出版、2018年。