アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#344

景観と表面的なもの  
― 下村泰史

BA4E5FFB-3187-4351-B0AF-E2440299C9FD

最近、学内のいろいろな学科で景観について話すことが増えた。もともと「ランドスケープ」が専門なので知らなくてはいけない分野なのだが、人に教えるにあたり改めて復習しているところである。一応学んだことのあるものでも、改めて見直していると思わぬ気づきがあったりする。今回はそれについて書こうと思う。

 日本の景観について、どんな見方があるのか、といったことについて整理していたときのことである。二つの異なる景観の見方に気づいた。一つは樋口忠彦の有名な景観類型である。もう一つは文化庁の重要文化的景観の概念である。この二つを並べて論じた人はあまりいないのではないかと思う。

 樋口の「景観の構造」(技法堂出版、1975年)は、この分野の欠かせない名著である。前半の「ランドスケープの視覚的構造」では土木景観工学的な分析的方法で、景観という現象のさまざまな側面について検討している。後半の「ランドスケープの空間的構造」は打って変わって日本の故郷の景観類型を取り出す旅となる。この全く異なる二側面を持つことが、この本に奇妙な魅力を与えている。この空間類型については、ミツカン酢が設置しているサイト「ミツカン 水の文化センター」の特集記事で見ることができるので、是非参照して欲しい。

ミツカン 水の文化センター 機関誌『水の文化』14号 「京都の謎」

https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no14/04.html

「景観の構造」で論じられた、1. 水分神社型空間 2. 秋津州やまと型空間 3. 八葉蓮華型空間 4. 蔵風得水型空間 5. 隠国型空間 6. 神奈備山型空間 7. 国見山型空間 の7類型の空間構成がわかりやすく図示されている。この図は、樋口の原著ですでに提示されているものである。山の連なりはホイップクリームのようで、四角く切り抜かれた図は、白いケーキのようにも見える。山、平地、川、聖空間などがどのようにまとまりを生んでいるかが、よくわかる。この図を見て、行ったことのある場所を思い出すこともあると思う。

 もう一つは、文化庁の「文化的景観」のコンセプトである。これは2000年代になってから文化財保護法に書き加えられたもので、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」とされている。ここからは、風土のなかで歴史的に形成された、人々の暮らしの反映としての景観、ということが読み取れる。とはいえ抽象的な表現である。ところが、「重要文化的景観選定基準」となると、一気に具体性が高まる。

 まず、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された次に掲げる景観地のうち我が国民の基盤的生活又は生業の特色を示すもので典型的なもの又は独特のもの」とされ、次に

1.  水田・畑地などの農耕に関する景観地
2.  茅野・牧野などの採草・放牧に関する景観地
3.  用材林・防災林などの森林の利用に関する景観地
4.  養殖いかだ・海苔ひびなどの漁ろうに関する景観地
5.  ため池・水路・港などの水の利用に関する景観地
6.  鉱山・採石場・工場群などの採掘・製造に関する景観地
7.  道・広場などの流通・往来に関する景観地
8.  垣根・屋敷林などの居住に関する景観地

といったものが列挙される。大変具体的で、目に浮かぶようである。

 樋口の景観類型、種々の重要文化的景観タイプ、ともに日本人である私には強い情景喚起力を持つものだ。しかし、その喚起力の作用の仕方は大きく異なるもののように思われる。

 樋口の類型は、山とか川とか平地とかのコンポジションによるもので、地表面には基本的に興味がない。その山が原生林なのか、里山なのか、ヒノキの林なのかといったことは、どうでもよいこととなっている。平らなところが、水田なのか草原なのかもあまり問われない。これは土地利用や植生のことは捨象してしまっているということだ。骨格としての地形が露出しているモデルなのである。

 一方の「文化的景観」については、地表を覆う人間の痕跡に注目している。人間が作った水田とか用材林とかため池とか養殖いかだといったものが、前面に出てきている。もちろん農村にせよ漁村にせよ、それを成立させる地形や水系といったものはあるのだが、ここではそうした地形的骨格よりも表面に現れているものが重視されている。

 日本人は、「重要文化的景観選定基準」に示されたさまざまな具体的な要素は、日本の風土の中で季節折々の姿を見せるものであることを知っている。またそうした周年的な時間だけなく、歴史的に形成されてきた生活と生業が作り出してきたものであることも知っている。一方、樋口の景観類型はそうした時間的なものを排除して、動きを取り除いた結晶のようなもののように思われる。いやむしろ、悠久の時間の向こう側の祖型に関心があるのであって、微細な生活スケールの時間がノイズとして取り除かれているのかもしれない。いずれにせよ、ここでは生き生きとしたものは除かれている。

 となると、この二つの景観の見方の背景にはそれぞれ、悠久の地史的(あるいは神話的)時間と人間的な時間とがあるのかもしれない。この二つは、日本の景観への視線の注ぎ方として、きわだった対照をなすもののように思われるのである。

 景観は、人の容貌に例えることができるものだと思う。人の容貌は一義的には骨格や肉付きといった、フィジカルな要素によって定まるが、歳を重ねると、その人が人生の中で獲得してきたものが、その姿に現れるようになる。肌や髪をはじめ、表情の動きや視線のようす、身だしなみといったところにもそれは見えるようになる。身だしなみと言ったが、手をいれて整えることができるのも、景観と同じだ。肌に色を乗せたり、髪を整えたりするように、建築の外壁の色を揃えたり、木を植えたりすることができる。これは狭義の景観デザインの領域の仕事である。これもやりすぎは禁物なのは、人の場合と変わらない。

 樋口の方法は、その骨格や肉付きに迫るものであり、「文化的景観」はその肌に現れる履歴に注目する

 自然の骨格を覆うようにして現れる、歴史と生活の反映。これは景観の美をなす重要な要素なのだ。これは、風土と文化の深淵を感じさせるものである。しかし不思議なのは、それが大地の最も表面における出来事だということだ。人の容貌においても、その人ならではの魅力的な表情といったものは、深いところからやってくるもののように思われる一方で、出来事としては、骨格と表情筋の上の、表皮の表面の出来事に過ぎない。この逆説な何なのだろうと思うのである。

 表面にうかぶものは、不易のものではない。人の微笑みにせよ、まちなみにせよ、移ろっていくものである。こうしたものは、うわべのもので、本質的なものではない、という考え方もあるだろう。だがうつろうものは語りかけてくるものでもある。それゆえ、それを見つめる者のうちにはさまざまなものが生起するのだと思う。深いところからやってくるように思われるのは、そのせいかもしれない。

 表面に現れる変化をメッセージとして読み取ることが、日本の景観を考えるうえで大切なのだと思う。これは詩的なものでもあり、工学的なアプローチのなかでは忘れられがちなことでもある。総合芸術大学のランドスケープ・アーキテクトに求められるのは、まずこの表面的な出来事を読み味わう技法なのかもしれない。そしてそれは優れて芸術教養的なものでもあるのだと思う。