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アネモメトリ -風の手帖-

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#286

久良岐能舞台
― 森田都紀

久良岐能舞台

(2018.09.23公開)

私が幼少期を過ごした横浜市には、磯子区と港南区にまたがる地に、およそ23万平方メートルの敷地を有する久良岐公園という緑豊かな公園がある。里山の谷戸の地形を活かし、公園には棚田跡や池があり、梅や桜などの草木に恵まれる。幼い頃、この公園に足繁く通い木登りやヤゴ取りに興じたことが、今でも懐かしく思い出される。また、かつては明治末期に開通し昭和40年代まで走った市電が園内にあり、子どもたちの格好の遊び場となっていたものだ(注1)。
その久良岐公園の一角に、「久良岐能舞台」という能舞台がある。能舞台は三方を雑木林に囲まれ、静寂のなかに佇む。もとは野毛山の林光寺の住職・塚越至純禅師が禅寺を建てた地で、禅師はここで横浜の地名人に座禅や漢文を教えていたという。
屋内にある能舞台には52畳の畳敷きの見所があり、こぢんまりとした心地よい雰囲気が漂う。役者が舞う本舞台は、一般的な舞台のそれより一回り小さく、また役者が入退場の際に歩む橋掛りの長さもずいぶん短い。それは、この舞台が立方の役者ではなく、楽器を奏する囃子方の役者を養成する目的で造られたためである。橋掛りの奥にある大窓からは屋外の竹林が見え、自然との一体感が感じられる。また、舞台の鏡板に描かれる老松の絵は、日本画家の平福百穂(1877-1933)によるもので、自然豊かなこの地の景色によく映えている。幼い頃には知らなかったことであるが、この久良岐能舞台は近代の能楽の混乱期に建造された、近代能楽史において重要な意味を持つ舞台である。
歴史を振り返れば、式楽として江戸期まで幕府に保護されていた能楽は、明治維新に際し保護基盤を失い衰微していた。しかし、欧米を視察した岩倉具視(1825-1883)が外国高官に見せられる日本独自の劇を創出するために、明治14年(1881)、華族らと「能楽社」を発足し、能楽振興に踏み出す。そして、専門劇場としての能楽堂の必要性から、以前アネモメトリにも記した靖国神社能楽堂(旧、芝能楽堂)をはじめとする能楽堂の建設が始まった。しかし、岩倉が没すると能楽社の活動は停滞する。その状況を見るに見かねて、能楽の復興を図り、遠く愛媛より上京してきた人物がいた。池内信嘉(1858-1934)である。池内は愛媛県会議員や伊予鉄道支配人などを歴任した経験を持ち、俳人・高浜虚子の兄でもある。池内はさまざまな復興事業に着手するが、とりわけ囃子方の役者の育成を火急の課題とし、「能楽倶楽部」を発足させ囃子方養成に乗り出すのだった。
こうして大正6年(1917)、囃子方養成事業の一環として、池内が中心となって建造したのが久良岐能舞台である。当初は、東京の日比谷にあった。設計は、山崎静太郎(楽堂、1885-1944)による。山崎は、東京の細川家能舞台、梅若能楽堂(ともに太平洋戦争で焼失)、松平家能舞台(旧、染井能楽堂)なども手がけた建築家であるが、能楽研究・評論家としても活躍した。
大正元年(1912)には、池内の建議により東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)に能楽囃子科が設置され、囃子方の養成は着々と進んだ。一方、久良岐能舞台は昭和6年(1931)、能楽社が解散したのを機に東京音楽学校に寄贈される。昭和39年(1964)に東京芸術大学に舞台が新設されると、不用となって現在地に移設、その後、横浜市へ寄贈されて現在に至る。
能楽復興の流れは、大正期から昭和前期にかけて黄金期を迎えた。太平洋戦争による戦災で壊滅的な被害を受けたものの、戦後日本の経済復興とともに多くの能楽堂が建設された。名古屋能楽堂や横浜能楽堂のような地方公共団体による能楽堂も増え、昭和58年(1983)には国立劇場能楽堂(いわゆる、国立能楽堂)が開場する。能楽堂では、普及公演や公開講座が広く行われ、詞章の字幕表示システムを取り入れているところもある。こうして現代では、能楽堂は観客と結びつき、より開かれた姿を求められるようになった。能楽堂の役割は時代とともに変化してきたといえるだろう。

久良岐能舞台(久良岐公園):
京浜急行「上大岡駅」「屏風ヶ浦駅」よりバス、JR京浜東北線「磯子駅」よりバス

注1:2012年に修復され、現在では年数回のみ車内の一般公開が行われている。

主な参考文献:
小林保治・表きよし編『能舞台の世界』勉誠出版、2018年。