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#145

夏目漱石と申
― 野村朋弘

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(2016.01.10公開)

明治の文豪といえば、だれもが想起する夏目漱石。慶応3年(1867)1月5日に江戸の牛込馬場下横町に生を受けた。現在の東京都新宿区牛込喜久井町である。
漱石といえば『蒙求』の「漱石枕流」からとられたことで有名だが、これは号であり、本名は「金之助」という。
金之助の父は小兵衛直克といい、五男三女の子宝に恵まれた。夏目家は牛込村の名主として比較的裕福な家柄だった。金之助は末子として生まれたものの、父と母の晩年の子として疎まれて生まれてすぐに里子に出された。姉が不愍に思い連れ戻されるものの、1歳の時に父の書生をしていた塩原昌之助のもとに養子に出された。それから義父の女性関係のもめ事から離婚。それに伴い9歳で実家に戻ることとなる。しかし、義父は実子として戸籍を届け出ていたため、籍を抜くため手続きがかかり、21歳まで塩原姓を名乗らざるを得なかった。こうした恵まれない家庭環境から金之助は内向的な、また家族に対しても他者として相対する感性を持つ青年となった。

それから大学予備門(現在の東京大学教養学部)、帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に進み、英文学者としてイギリス留学を経て帝国大学文科大学講師となる。しかし学問上の悩みや、私生活でのトラブルなどで精神衰弱となり、暗鬱な心情で書かれたのが処女作の『我が輩は猫である』であり、以降、小説家として名を馳せる。帝国大学を辞し、小説家を職業として選択した金之助は亡くなる大正5年まで小説を書き続け、多くの文学作品を遺している。

さて、ここでは夏目金之助の名前について注目したい。金之助という名前の由来は、彼が生まれた慶応3年1月5日が庚申(かのえさる、こうしん)にあたることに因る。江戸時代、庚申の夜に生まれた子は泥棒になると信じられていた。「庚申信仰」に拠るものだ。
人の躰には三尸の虫が住んでおり人の悪事を記録している。庚申の夜に眠ると三尸の虫が躰から抜け出しその人の悪事を天帝に告げると考えられており、夜通しで起きていなければならないという。平安時代から「守庚申」として行なわれてきた。こうした民間信仰を庚申信仰という。写真はその庚申信仰によって作られた石造物である。

庚申の夜に生まれた子が何故、泥棒になるのか、由来ははっきりしていないが、おそらく庚申の夜に生まれた子は三尸の虫が躰内にいない。そのため悪事が天帝に告げられることがないので、勝手し放題ということだろうか。ともあれ、この信仰は江戸時代まで強く信じられており、このこともあって金之助は父母に疎まれたのかも知れない。
とはいえ、子が生まれてくることを妨げる方法はない。庚申の夜にも子は生まれる。そこで泥棒とならないために、名前「金」もしくは金偏がつく字を用いると、難を逃れるといわれていた。そのため夏目金之助と名付けられたのである。

また、庚申の年や日は、陰陽五行説の金気が天地に充満するため人心が冷酷になると考えられてきた。奇しくも、夏目金之助は家族に対して冷酷に育つ。このように干支や陰陽五行説、庚申信仰などの民間信仰・伝承は江戸時代までの人々に強く影響を与えてきた。金之助もこうした名付けや疎まれることがなければ、また違った人生を歩んだかも入れない。しかし、彼の歩んだ道程があってこそ、漱石文学を我々は読むことが出来る。更には漱石山脈と称される、漱石に影響を受けた人々の作品を読むことが出来るのだ。文芸をはじめとする芸術作品を読むとき、その作者の歩んだ歴史も理解すると、また一つ面白さが増える想いがする。