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アネモメトリ -風の手帖-

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#101

デザインと恍惚とちゃんちきおけさ
― 下村泰史

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(2015.02.22公開)

都市デザインのクラスで教えていた頃、学び始めたばかりの若い学生たちに向かって、デザインとアートの違いについて話さなくてはならなくなることが、ままあった。子どものうちは、「かっこいい形」「おしゃれな場所」「よくわからないけどすごい空間」を絵にするのがデザインだと思っていることが多いので、そこにいろいろ理屈を注入してやらないといけなかったのだ。

そういうところでは、だいたいとおりいっぺんのいつも話、つまりデザインとは、現実世界において機能をもつものであるとか、社会的な諸要求に応えるものであるとか、さまざまな分業のなかではじめて実現できるとか、感性一発じゃなくてアイディアや概念を操作して云々、などといってみたりした。最近流行っている便利なやつとしては、アートは問いをつくるものであり、デザインは答えをつくるものだ、というのもある。

そういうことを言いながら、決して嘘をついているつもりはないにも関わらず、どこか落ち着かない心持ちがしていたのも確かである。アートに機能がないわけでもないし、社会性がないわけでもないし、頭を使わないわけでもない。優れたデザインは問いをユーザーに投げかけることだってある。うそではないが、どこか本当ではない感じもあるのである。あまり対立的に捉えても大事なところが抜け落ちて、つまらなくなるだけなのだろう。これらは両ジャンル、あるいは両プロセスの違いというより、職業的な自意識の話なのかもしれない。

即興音楽のワークショップに没入するようになって、この2つについてそういったのとは別の考え方をするようになった。それは「いまここ」の問題である。音楽の演奏においては、その場においてこんこんと生成に関わり、立ち会うという経験をする。対象や素材や空間と緊密につながった、集中度の高い、はりつめたものとうっとりとしたものが同時にあるような時間である。実演芸術においてこれは本質的なものだが、絵画など他のビジュアルアートにおいても、制作に集中するときにはそのような時間が訪れているはずである。絵を見るということの一部は、その時間を追体験しようとすることである。メディアアートやインスタレーションでは、相対的にそうした経験が占める部分は少なくなるのかもしれない。さまざまな準備などのプロセスのほうが大きくなってくるのかもしれないが、この魔術的な時間がなければ、おそらく強度は発生しないのではないかと思う。

一方、デザインとはつねに何かの「準備」である。デザイナーのデスクの上で、その目的物が生まれることはない。受注から成果品の納入にいたるまですべてが「準備」である。デザインとは「企図」であり、「いまここ」にないものを構想し招来する作業である。デザインワークも集中的な生成の時間がないわけではない。エスキスのプロセス、アイディアを磨き上げるプロセスにはそういう集中があるはずだが、それはあくまでも「準備」としてあるのである。
モノのデザインは当然モノとの対話を含む。そこには物質と親密にむかいあう恍惚があったろう。しかし、コトのデザインが言われ、しくみのデザインが言われ、概念操作のプロセスにデザインの本質があるように言われるようになると、そうした恍惚はむしろ余分な過程であるかのように思われくる。そうなのだろうか。

おそらくどのような創造においても、「生成の時間」と「構造的な準備過程」との両方があるのだろう。恍惚のところがそのまま大事になることもあるし、それがソースとして準備に組み込まれることもあるということなのだろう。とはいうものの、最近はこの「生成の時間」が疎んじられているのではないかと思うことがある。デザインにおけるソフト偏重にも、一部のアートにおけるアイディア一発的な傾向にもそれは感じるところである。

デザインの教員としては、「社会に出たら締め切りというものがあってだな」ということを口を酸っぱくして言わなくてはならない。合評までに作品が出てこないというのは最も良くないことであると教える。急げ急げと尻を叩く。しかし一方で、まだどんなものになるかわからない混沌としたもののために、もしかしたら無駄なのかもしれない時間を徹底的に費やしてみる機会を、彼らに与えているだろうか、という気がすることもある。耳に心地よい小奇麗なコンセプトと、3DCGが描いてくれたパースからなるスマートな作品を見ていると、その過程に例のうっとりするような時間が抜け落ちているのではないかと思うことがあるのである。

今、短期的な成果を求められる世の中で、そういう意味づけられない時間を持つのは難しいことなのかもしれない。しかしそこを忘れてしまうと、すべての創造は「しくみ」の白骨だけになってしまうのではないか。芸術を学ぶ場は、そういう時間を用意していかなくてはならないのだと思う。というわけで、これを読まれた方はさっそく没我の時間を持っていただきたい。趣味をお持ちの方は、うまくなってほめられたいというような我執は捨てて、線との対話、音との対話、素材や肉との対話に耽っていただきたい。
ちゃぶ台にお皿をならべて、知らぬ同士で叩いてみるだけで、音楽がそこに刻一刻と生成するというのは、実は驚きに満ちたことである。この驚異を驚異として見出す知覚と指が、世のため人のためと言われるデザインにも、必要なのである。すくなくともその時、ちゃぶ台の上には公共圏が生まれている。