この夏、いったい何杯のアイスコーヒーを飲むのだろう。
イタリアで幼稚園児と物々交換をしたお気に入りのマグカップに氷を入れ、コーヒーを注ぐ。それが、机に向かう前の夏のルーティーンになっている。
8月は、芸術教養学科の教員にとって、秋卒業を目指す学生の方々の「卒業研究」を採点する月である。
提出されたレポートを一つひとつ読み、課題の趣旨に沿っているか、根拠をもとに考察されているか、書き手自身の見解が示されているかなどを確認していく。大切な仕事だからこそ、まとまった本数を前にすると、深く息を吐き、静かに気合を入れる必要がある。
けれども、いざ読み始めてみると、採点しているこちらが思いがけず夢中になってしまうことが多々ある。
卒業研究に限らず、学科専門科目の「芸術教養演習1」「芸術教養演習2」では、学生の皆さんが、それぞれの興味・関心や、暮らしている地域、仕事やこれまでの経験などにゆかりのある題材を持ってきてくれる。地域の行事や建築物、工芸品、食文化、美術館、舞台芸術……。その対象は実にさまざまである。
当然ながら、そのすべてを教員陣が詳しく知っているわけではない。だからレポートを読むことは、学生が見つけてきた文化資産について、自分の知らなかった魅力を教えてもらうことでもある。「なぜこの題材を選んだのだろう」「この人は、ここから何を見いだしたのだろう」と思いを馳せながら読んでいると、書かれた言葉の向こうから、学生のまなざしがこちらに語りかけてくるように感じる。
書き手が対象と向き合った時間を、今度は読み手が受け取り、自分なりに応答していく。レポートを介して、直接声を交わすのとは少し異なる、静かな対話が生まれているように思う。
中でも、レポートをきっかけに、すっかりお気に入りになったものがある。南インドのチェンナイに拠点を置く出版社「タラブックス」の絵本である。
もともと絵本は好きで、旅先や、ふらりと入った書店で直感的に気に入ったものに出会うと、つい購入してしまう。内容をじっくり吟味してからというより、ほとんどが「ジャケ買い」である。
タラブックスでは、手漉きの紙に一色ずつシルクスクリーンで印刷し、一冊ずつ手作業で製本していく。レポートを読み進めるうちに、その本を実際に手に取ってみたくなり、すぐに数冊を購入した。
中でもお気に入りなのが、『しっぽばなし』※である。いまとは違う、新しい「しっぽ」を探す猫の物語で、ワルリ族にルーツを持つワイエダ兄弟の絵と、谷川俊太郎さんによる日本語訳が組み合わされている。
この絵本が作られる様子を紹介した映像も、これまでに何度見たことだろう。紙を扱い、版を重ね、一冊ずつ本を仕上げていく人たちの姿を眺めていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。仕事に追われ、少し心が疲れたときには、随分と大きなエネルギーをもらってきた。
本学科の卒業研究で作成する「文化資産評価報告書」は、研究レポートであると同時に、文化資産を誰かに手渡すためのガイドでもあると言えよう。そこには、書き手が自ら足を運び、調べ、考えたからこそ見えてきた、その対象の魅力が記されている。
一人の学生が文化資産と向き合い、その記録をレポートにする。教員はそれを読み、書き手の発見や問いを受け取る。そして、ときにはその先で、新しい本を手に取ったり、知らなかった場所を訪ねたりする。
考えてみれば、机の上のマグカップも、レポートを通して出会った絵本も、誰かの手から自分のもとへとやってきたものである。ものを介して、その向こう側にいる人の姿や、過ごした時間に思いを馳せる。そんなところにも、小さな対話が生まれているのかもしれない。
今年の8月も、たくさんのレポートの向こう側に、まだ見ぬ文化資産の魅力と、新しい対話が待っている。
※ツシャール・ワイエダ、マユール・ワイエダ絵、アヌーシュカ・ラビシャンカール文、谷川俊太郎訳『しっぽばなし』、世界文化社、2023年。


