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#163

「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展」を見て
― 加藤志織

「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展」を見て

(2016.05.15公開)

 美術に特別興味をもっているわけではないが印象派の絵画は好きだという人は多い。確かに、流麗な筆致で画面に展開された、時に淡く時に鮮やかなその色彩はわれわれの目を常に喜ばせてくれる。また、宗教や神話あるいは歴史から題材をとった絵画とは異なり、街中で日常的に見られる生活場面、郊外や保養地の風景を描いた印象派絵画はフランス人だけではなく日本人にもなじみやすい。
その印象派の巨匠ふたりの回顧展が先日まで京都市美術館で同時に開かれていた。そのふたりの巨匠とはクロード・モネ(1840~1926)とピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)である。ちなみに前者の展覧会「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展」は5月8日で終了し、6月4日からは会場を新潟県立近代美術館に移して開催される。一方、後者の「光紡ぐ肌のルノワール展」は6月5日までの開催である。
今回はモネ展について報告する。本展には睡蓮を描いた作品が複数出品され人々の注目を集める一方で、会場内で最も混雑していたのは《印象、日の出》(1872年/油彩、カンヴァス、50×65cm)の前であった。この絵画が、1874年にパリで実施されたグループ展、いわゆる第1回印象派展に展示されたことと、その際に美術記者であったルイ・ルロワが雑誌『ル・シャリヴァリ』で、タッチが粗く未完成のように見えることからこの作品を面白おかしく紹介したために、「印象派」という呼称が誕生したことは衆人の知るところであろう。
ゆえに《印象、日の出》は近現代美術史において非常に重要な一枚といえる。一般的には日の光の下で刻々と変化する微妙な色彩を捉えた「積わら」、「ルーアン大聖堂」、「(ロンドンの)国会議事堂」、「睡蓮」といった各連作の方が知られているかもしれないが、こちらも美術関係者には有名な作品である。実際に《印象、日の出》を見てみると、日の出によって赤く染められた空の色彩に目を奪われる。図版では灰色にくすんだオレンジ色だが、肉眼では薄く鮮やかなピンク色に見えた。最初、何かライトを用いた余計な演出がおこなわれているのかと思ったほどにそれは麗しく蠱惑的であった。会場では私の他にも想定外の美しさに驚きの声をあげる人が多数いた。《印象、日の出》はめったにマルモッタン・モネ美術館から貸し出されることがない傑作である。そのために3月21日で展示は終了されており、残念ながら新潟で鑑賞することはできない。
その他にも注目すべき作品がある。モネは晩年白内障を患いながらも画業を続けたために、この目の病が影響したと考えられる作品が存在する。こうした作品は白内障の手術後に視力を回復したモネ自身によって一部が廃棄されたが残りは手元に残されて最終的にマルモッタン・モネ美術館で保管・展示されることになった。庭の草木を描いたこれら最晩年の作品は、《印象、日の出》など問題にならないほどの粗い筆使いで描かれ、塗り残しが目立つ作品がある一方で、うねる筆跡が気持ち悪くなるほどに重なり絡み合う作品も存在する。説明を受けなければそこに何が描かれているのか理解することは難しいだろう。
手術後に画家自身が廃棄しなかったことからもわかるように、残されたこれらの作品は適正な判断力の欠如や衰えた視力の産物などではない。モネが終生探求したのは光や空気あるいは水面といった、それ自体を描くことが困難なモチーフをいかに表現するのかといった難問であった。「見えるもの」、「見ること」、「描くこと」の間にある関係を徹底的に突き詰めた結果、ルネサンス以降のヨーロッパ絵画が追い求めてきた画面の三次元的な奥行やリアルな描写からモネの作品は離れることになる。画面全体が水面で構成された「睡蓮」の連作等がその典型だ。奥行の表現が難しく、透明でしかも鏡のように反射するために実態がつかみにくい水の表面を意図的に題材として選んでいる。「見えるもの」よりも「見る」という行為それ自体を考察した最晩年の作品も当然この流れに位置づけられる。こうした試みが後の20世紀絵画の先駆けのひとつとなったことは今更述べるまでもないだろう。
間近でモネの最晩年の作品を見て、その異様な迫力に圧倒されて思い出したことがある。学生だった頃に親しかった友人から、日傘を持った女性を描いた連作(《日傘を差す女》オルセー美術館所蔵など)は一見するととても美しい絵だが、よく見ると人物と風景が同じように描かれているために、そこから人間の存在を感じることができずとても恐ろしいという話を聞いた。この一言が、私のモネ像を一変させることになった。もしかしたらこの不気味さはモダンアートに共通するものなのかもしれない。そう考えると、セザンヌやゴッホの見方も変化しそうである。

画像:京都市美術館