(2016.07.31公開)
ここのところ、美術批評に関する文章を読んだり考えたりする機会が多かったせいか、どうも頭の底の方に、そもそも批評とは何なのだろう、という疑問がこびりついてしまって離れてくれない。美術批評は、たとえば美術史とどのように違うのだろうか。もちろん、いくつかの回答がすぐに思いつく。前者は多かれ少なかれ論者の主観に基づくものであるが、後者は史料や事実に基づいた客観性を有している、あるいは、前者はそれ自体で芸術作品に準じる創造的実践であるが、後者は学問研究である、などなど。いずれもそれなりの妥当性を持った答えではあるだろう。けれど、実のところは自分の方が、そうした便宜的な線引きをしてしまうことに、後ろめたい気持ちを感じるのも事実である。そもそも、芸術作品の価値が常に後世によって決定されていくものであることを思えば、美術史もまた価値判断の問題と無関係だとは言えず、その意味で、美術批評と完全に区別することもできないのではないか。
とすると、批評とはなんであろうか——そんなとりとめもないことを考えていたとき、ロベルト・ロンギ(Roberto Longhi, 1890-1970)の「美術批評への提言」と題されたテクストを読んだ。ロンギは、画家カラヴァッジョの再評価に先鞭をつけたことで知られる、イタリアを代表する美術史家の一人である。しかし、ロンギは研究者であったと同時に、同時代美術の優れた批評家でもあった。「美術批評への提言」は、その美術史家=批評家のロンギが、批評の果たすべき役割について語った、貴重なテクストである(なおこのテクストははじめ、1950年に雑誌『パラゴーネ』に掲載されたが、一昨年ポルタトーリ・ダクア社により単行本化されており、私が実際に読んだのは後者である。邦訳は、ロベルト・ロンギ『芸術論叢Ⅱ——歴史・批評・方法』1999年に所収)。
さて、そのテクストのなかでロンギは、美術の歴史を古代ギリシアから足早にたどりながら、その歩みに並走した批評家たちの歴史、ある種の「美術批評の空想美術館」を描いてみせる。その「美術館」に登場する批評家たちは、ダンテから、ジョルジョ・ヴァザーリ、ピエトロ・アレティーノ、マルコ・ボスキーニ、シャルル・ボードレール、ポール・ヴァレリー、フェリックス・フェネオン……と多彩だ。興味深いのは、このロンギ流の「批評史」が、アルベルティやレオナルドといった、当然思いつくであろうルネサンスの芸術理論家たちの名前に重きを置いていない点である。その一方でそこには、批評家というよりもむしろ詩人や散文家といった肩書きが相応しい人物が多く含まれている。
このような批評の系譜を担保しているのは、美術批評とは、徹頭徹尾、芸術作品との直接的な接触のもとに生まれるものであらねばならない、というロンギの信念である。批評とは、作品を超えたところにあるような哲学的思想や、形而上学的事柄を明らかにすることではない。そうであるから、絵画を新しい科学へと統合しようとしたアルベルティやレオナルドの記述は、批評というカテゴリーには当てはまらない。批評とは、ある芸術作品を通じて、それが他の芸術作品や、社会、経済、宗教、政治などとの間に切り結ぶさまざまな関係性を明らかにする営みなのである。ロンギは次のように言う。「芸術作品とは解放である。だが、それは、自分自身や他者の織物/テクストを引き裂くがゆえに解放なのである。剥ぎ取り引きちぎりつつ、作品は天上へと飛翔していくのではなくて、この地上に留まる。それゆえ、すべては作品の中に探さなければならない。というのも、まだ見つけるべきものがあることをわれわれに教えてくれるのは作品であり、その十全な理解にはいまだ何かが欠けているからである。」このように、その方法論において徹底した作品中心主義の立場を貫いたロンギにとっては、美術批評と美術史もまた、区別されるものではなく、連続したものであった。
ところで、ロンギの批評観においてもう一つ重要なのは、批評における表現の重視という点である。単行本の『美術批評への提言』に序文を寄せた哲学者のジョルジョ・アガンベンは、ロンギのこの文章が、美術批評を文学活動に近づけようとする戦略を有していることを指摘している。彼の示す「批評史」に、これほどに詩人や散文家たちが多いのも、批評活動においてその内容だけではなく文体や表現を重視しているためである。事実、ここでは詳しく触れる余裕がないが、ロンギ自身の批評もまた、修辞を駆使した多彩であると同時に難解な文章であり、それ自体である種の文学作品として読むことのできるほど豊かなイメージに満ちている。ただし、急いで付け加えておかねばならないが、文学的な批評と言ってもそれは、自由な印象批評を意味するのではない。良き批評家はたえず作品に立ち戻ることで、逸脱した解釈を戒めるものであるし、そもそも芸術作品と批評は、いずれもそれが属する時代から自由ではなく、歴史的に条件づけられているからだ。ロンギが表現を重視するのは、むしろ、芸術作品は、唯一の客観的で決定的な価値や解釈に還元されないと、彼が考えているからである。芸術作品がそれ自体で様々な解釈に開かれた存在である以上、ある芸術作品を、それが生まれた時代ごと理解しようとする批評にとって最良の方法は、作品や史料から読み取れる無数の徴候を、「喚起的で多義的な方法」によって再構成しようとすることだと、ロンギは考えるのである。
もちろん、このようなロンギ流の批評=美術史には異論もあるだろうが、彼の方法論についての議論は別の機会に譲ろう。ロンギの批評もまた、必然的に歴史の制約を受けたものであり、それ故の限界を持ってもいたことは事実である。しかし、60年以上前に書かれたこのテクストが、美術批評についての省察として、けっして色褪せていないのもまた、事実である。「「歴史的に条件づけられた」芸術作品と「歴史的に条件づけられた」批評とは、まるで鏡の反射が次々と起こるように、永久に求めあい響きあう。時代から時代へと、人類によって伝えられるこの反射は、かくしてより奥へとその像を刻むのである」——そのような言葉でロンギが示そうとした芸術作品と批評の歴史は、唯一の像を結ぶことのないまま、今も、お互いの新たな姿を、自らのなかに映し込んでいる。
注)引用は、邦訳を参照したが、文意によって適宜改変を行った。
興味を持たれた方へ:
Longhi, Roberto, Proposte per una critica d’arte, Pesaro: Portatori d’acqua, 2014(ロベルト・ロンギ「美術批評への提言」岡田温司監訳『芸術論叢Ⅱ——歴史・批評・方法』中央公論美術出版、1999年、所収)
図版キャプション:
カラヴァッジョ《ナルキッソス》1597-1599年頃、カンヴァスに油彩、113×95cm、バルベリーニ宮、ローマ
図版出典:
・Encyclopædia Britannica ImageQuest