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アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

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#372

キャラランド
― 上村博

空を描く202402

写真キャプション: 街角のバービーたち:藤谷里枝氏蔵・撮影の人形(日本、20世紀後半)をもとに構成

「陰キャ」「陽キャ」と言った言葉がある。「陰気」や「陽気」とはまたちょっと違ったニュアンスがあって、「陰キャ」は陰気な人間というより、もう少し広く、引っ込み思案な性格や、単なる影の薄さまでも含み、「陽キャ」もただ明るいというより、明るく振る舞う、ノリが良い、さらには大阪弁で言うところの「いちびり」までも包含するようだ。いずれも社交面でのニュアンスが強い。「キャ」がまさしく「キャラクター」の略であるとおり、それらは社会の中での役柄を示している。内面的な性向としての性格というより、表明され、承認された特質としての性格なのである。
キャラクターを扱った古典的な書物にラ・ブリュイエールの『さまざまな性格』(ひとさまざま Les Caractères、1688年)がある。そこでは社交生活上によく見られる典型的な人の傾向や振る舞いが生き生きと、ときに意地悪く描き出される。たとえば「女性は恋愛において男性に遥かに先んじるが、男性は友情において女性に勝る」など、主語は「男たち」「女たち」と大きな括りである。このように人間をおおまかな類型によって論じるのは、人間の気質を四つに大別した古代のヒポクラテースの体液説も同じである。これは近代に至るまで強い文化的伝統であるとともに、いまの血液型性格診断も案外それに近い発想だろう。「陰キャ」はそこではさしづめ黒胆汁質(メランコリー)にあたるだろうか。しかし「キャラクター」は、気質(「ユーモア」の語源、本性的な傾向)のような、どちらかといえば内面の本質を指すものというよりも、対外的に演じられる、あるいは意図的に演じられたものでないにしても、対外的な姿勢や態度が作り上げたものである。「キャラクター」の語源「カラクテール」(ギリシャ語・ラテン語)が「刻印」であったように、キャラクターはすでに外に存在する型をあてはめるものである。生来の気質以上に、職場や学校、家庭、仲間内での役割がキャラクターを決定してしまう。そして集団内で期待される役割を決めるのは、年齢と並んで、とりわけ性差である。

昨年公開されたアメリカ映画『バービー』では、とりわけ男性・女性の紋切型を巡って筋書きが進行する。映画の冒頭、荒野に少女の群れがいて、それぞれ赤ん坊の人形の世話をして遊んでいる。そこにバービーが出現すると、彼女たちは成熟した女性を象ったバービーを見て覚醒し、母親ごっこをやめて赤ちゃん人形を放擲、蹂躙する。いささかショッキングな『2001年宇宙の旅』のパロディ(オマージュ)から始まるこの映画は、「バービーランド」というバービーたちの住む国と現実社会(リアルワールド)との接触を描いた空想の物語だが、女性らしさ・男性らしさの既成概念、そしてまたそれをあげつらう態度や語彙の紋切型をふんだんに盛り込んだコメディである。女性らしさの幅を拡張し、男性が担ってきたさまざまな社会的役割もそのヴァリエーションに加えたはずのバービーが、結局のところ、女性の新たな紋切型、新たな期待される像(たとえば社会進出をしても控えめさや愛嬌が求められる)を作り出した、さらにはそうした固定概念を浸透させた、という点が強調されるのは、バービーの愛好者やバービー製造元のマテル社(映画の主要舞台のひとつ)にとっては自虐的なネタでもあるが、また同時に、そうしたジェンダー論でお決まりの批判を引き受けつつも、過去の時代的制約の中で常に新しい女性のための理想像を作ってきたという自負もほのみえる。映画では、リアルワールドでバービーランドの女性像が通用しなかったり、バービーランドにもリアルな社会の男性原理が持ち込まれたりと、女性らしさ、男性らしさを巡る軋轢が繰り広げられる。そして男女のキャラクターたちが出来合いの役割を演じ続けることに破綻を来して、最後にリアルワールドで生身の人間となったバービーが病院の婦人科を訪れるところで終わる。これはいろんな読みとりが可能だろう。ただ、もしキャラクターの皮をかぶって振る舞ってきたバービーたちが最後に「自分らしさ」「人間らしさ」を回復し、「私は私で良いんだ」という自己肯定で終わったと解釈するなら、それはちょっと物足りない。「私は私」と言っても、その「私」だってひょっとしたら作りもの、借りものかもしれないからだ。それが近代的自我のような理念だとしたら、それだけで本当に「私」として実感できるかはかなりあやしい。人生の大概の時間は、家族や会社や仲間うちにとっての何者かであるほうが自分のアイデンティティとして居心地良く収まることが多い。バービーが人間らしく、「私」らしくなったとしたら、それはかつてバービー人形が、玩具としてはかつてなくリアルな女性像を呈示して人気を博したのと同様に、リアルな、しかしこれまたひとつのキャラクターを引き受けたというオチとして受け止められるだろう。

しかし、ややこしいことに、人間とはラッキョウの皮のように、向いても向いても中身はなく、ただキャラクターの皮しかない存在だ、という話になると、それは短絡的に過ぎるだろう。どんなキャラクターであっても、またどんなにキャラクターがしっくりと身についてしまったとしても、どこか集団とのズレ、集団の中で演じられる自分とのズレを意識してしまうのが近代の「私」である。リアルワールドの人間は、集団に帰属するだけで安心立命の境地にいられるかというと、そうもいかない。
「私」という、何ものにも属さない独立した個人がいる、というのは、その「私」を物理的に他と区別される個別の身体に結びつけるなら、ある程度は真実かもしれない。とはいえ、人間が普段から意識する身体性はきわめて一般的で、生理的な欲求充足感や疲労、苦痛といった感覚はたしかに「私」のものだとしても、そのような「私」は多くの人間に共通する「私」であろう。身体感覚は容易に共有可能であるとともに、そこでの「私」が他者と区別されるのはほとんど空間的な位置や形状においてのみである。勿論、人間はただの動物と違って生理的欲求に突き動かされているだけでなく、自分という意識を持っていて、学習や文化的習慣づけにより他者と異なる個性を身につけているかもしれない。しかしその場合も、後天的に身につけたもののほとんどは文化的な構成物であり、社会が提供する選択肢から身の丈にあったものを入手した個性である。そんな個性は結局キャラクターのヴァリエーションの中から身の丈にあった衣装を選択した着せ替え人形のようなものである。しかし、そこでさらに、既存の社会的慣習のすべてを疑い、確実な根拠に基づいて思索するような自我というものを考えることができるかもしれない。そんな自我は、いわば実験室的な「私」でしかなく、現実には社会的慣習が作るものを取り去った「私」として生きていくことは難しいし、仮にそれができたとしても、それはもはや現実世界に生きる人間というより真理の世界(たとえば幾何学の体系とか)で思惟する非人称の「私」だろう。そのような、自分というものの存在を自覚してリアルな世界を理性的に(つまり本能や欲望に流されず)生きてゆく近代的自我も一種のフィクションのようなものかもしれない。
しかし、それでもそのフィクションは大事な建前ではないか。それは案外、人間という、集団生活や自分の本能に安住できない欠陥動物にとっては、根本的な拠り所であって、この自分は本来の自分ではないのではないか、という、現実を否定できる疑問を、他人とは違う「私」というフィクションを求めることは、それこそ人形にも動物にもできない困った性癖である。この現実から距離を置こうとするフィクションのおかげで、慣習的な社会から距離をもった「私」という個人、このキャラクターだったり、あのキャラクターだったり、いずれかを引き受けることによってしか生きられないのに、あれでもこれでもない「私」が生み出される。勿論、その場合の「私」は近代の自立した市民というようなキャラクターに収まりきるものというより、そうした「私」も含めたさまざまな自己アイデンティティに対して俯瞰的に反省できる演技者であろう。

『バービー』でも、バービーランドに限らず、リアルワールドのなかで描かれる人間たちは、それぞれいかにもお決まりのキャラクターを演じている。コメディというものが必然的に人間の類型化を伴うということもあろうが、資本主義の論理を振り回す(論理に振り回される)社長や出来合いの女性像に悩まされてきた母親・従業員は勿論、バービー人形の作った女性イメージをさかしげに批判する少女すら、いまどきの冷めた少女というキャラクターをそつなく演じている。結局のところ、自分は自分で良いと自覚するバービーランドの住民たちも、リアルワールドで人間化したバービーも、近代市民社会の個人という主体(これも作られたキャラクターであることは、そんなキャラクターの存在が許されない社会がリアルワールド上にあふれていることからも容易にわかる)を含め、キャラクターの網からなかなか逃げきれない。しかし、実は逃げる必要もないのである。
「キャラ」についてはゴフマンの古典的な社会学的研究を思い出しても良いだろうが、最近の「役割語」の議論もいろいろと考えさせてくれる。たとえば老人が「じゃのお」と言ったり、会社の上司が「してくれたまえ」と言ったりする役割語については、現実にはそんな言葉遣いがなされているわけではなく、基本的には書き言葉や物語のセリフのなかでの言葉遣いである。ただ、これが示唆的なのは、使う言葉とキャラクターとが不可分のものとして認知されている点である。物語を構成する上で役立つ約束事としての役割語ほど顕著な語彙の特徴がなくても、実は日常的に使われる、あるいは使い分けられる役割語というものも考えられるのであって、それは敬語や標準語もそうだし、タメ口や悪口だって時と場所と相手を選ぶ。対人関係の中で自分のキャラクターが瞬時に選択され、そのキャラクターに合致した言葉遣いが口にされる。一方、逆の場合も十分考えられる。つまり言葉遣いが役割や性格を決定する、という場合である。粗暴でぞんざいな語り口はそのような性格を形づくり、丁寧で上品な会話を心がけていれば、おのずとそのような人柄になるかもしれない。それはきっとそうだろう。言語が認識や思考や行動を決定づける、という言語学上のひとつの議論には、なるほど、と思わせるものがある。しかし、あまりに言語論的相対主義に陥らないようにしよう。言葉はたしかにモノの見方、振る舞い方を規定するが、一方で言語は行動の必要から生まれたものでもあるからだ。言語が認識や行動を決定するというのは、行為のために意識的に身につけた習慣の力が強いあまり、それが人間の行動全般にわたって支配的になるのと同様の原理である。言葉遣いと表裏一体をなすキャラクターも、当初は意識的な選択がなされたかもしれないが、やがてそれがしっかりと身に固着してしまうと、もはやそれを振り捨てることが難しくなってしまうだろう。たとえ演じることのできるキャラクターが複数あっても、それは仮面をいくつか持っているというに過ぎない。しかし、それでも仮面は役者あっての仮面である。
結局のところ、「私は私」というキャラクターも含め、キャラクターからは逃れられないのかというと、おそらくそうである。しかしだからと言って、キャラクターを演じる自分が消えるわけでもない。そして丁度、同じ役柄であっても舞台俳優ごとに全く違った人物が演じられるのと同様に、如何に社会や文化がキャラクターを当てがったとしても、キャラクターは概念であって、その出現の様態はひとしなみではない。キャラクターの仮面を被っていても、それは個性を常に消し去るとは限らない。キャラクターの数しか人間がいないわけではない。むしろ人間の数だけ、否むしろ人間の数に、人間が演じ分けている10数倍のキャラクターを乗じた数だけ、人間がいると言った方がよいのではないか。
リアルワールドもキャラクターだらけである。そしてキャラクターは「ガチャ」でたまたまあてがわれるようなものかもしれない。しかし、リアルワールドでは何のキャラクターを演じるのかが重要ではない。むしろどのように演じるかが大切なのである。