私の所属は芸術教養学科だが、他のコースの教育にも部分的に関わることがある。今、あるコースの教科書の企画が進んでいて、その監修・執筆者チームにも加わっていて、その内容をどうするかという会議が頻繁に開かれている。
このコースの専門性に関わる教員は、通学部と通信教育部のさまざまなコースに散っているのだが、この会議では故郷に集まる感じもあって、熱の入った議論になる。場合によってはそうとう大きな声が出ることもあるが、総じて皆楽しんで参加している。よいものができると思うし、楽しみである。
それぞれ取り組み分野が微妙に違うこともあって、言葉を交わしていくうちにその学問分野の全体が改めて浮かび上がってくる。もちろんそれぞれ専門家であるから、その分野の学的体系には深い理解を持っているのだが、それでもいろいろな声のあいだで改めて姿を現す、その分野の全体像というものがある。章立てや見出し構成の議論を行なっていると、そういうものが見えてくる。その分野の体系というものが立ち上がってくるのである。
思えば、大学というもの自体、そうした体系を体現してきたものであった。文学部、法学部、商学部、工学部、理学部、芸術学部、農学部云々といった学部があり、またその中に例えば農学部であれば、農業生物学科とか林学科とか畜産獣医学科とかといった学科があり、さらにその中にもろもろの講座や研究室がある。これは樹状に表現することができ、それぞれの大学が理解している学問世界の表現となっているわけである。
というのがこれまでの大学なのだが、これからは必ずしもそうではないのだろうな、というのが、そのテキストの編集にあたっていて途中から考えたことであった。学ぶべきこととしてその分野について体系的に記す。あるいはその学問分野のあり方に即して体系的に学びの場を構成する、ということは、何にも先んじてその体系が自明のものとしてある、ということである。そして学ぶ人はその体系に合わせて自分を変えていかなくてはならないということである。
専門の学を志す、という場合にはそうした自己変容こそ、その学び手によって求められることであろう。しかし、分厚い教養ある市民層を生み出すことを目指している大学の場合はどうだろうか。そこでは、従来の学問体系とはまた別のものが構想されうるのではないかと思ったのである。巨大である意味権力的な学問体系に自分を合わせていくのではなく、それぞれの自由な学びの欲望、私はこうなりたい、こうありたいという夢に応えるものが、ありうるのではないか、と思うのである。
巨大な体系のインデックスによるのとは別の仕方で、本格的な「未知」への構えを学ぶことができる枠組みがあるとしたら、「芸術」はその有力なものの一つだと思う。
体系の一部になっていくのとは異なる自己変容を、そこでは用意することができるだろう。
現に京都芸術大学通信教育部が近年設置してきたコースは、必ずしも学問体系に即したジャンルではないように思う。「和の伝統文化」「芸術教養」「アートライティング」いずれも、学問体系とは別の、学び手側の欲望に訴える枠組みになっているようだ。
学び手側のニーズに応えるだけでは、大学の学びとは言えない。そこでどのような自己変容に導くカリキュラムをデザインするのかが問題だ。これは学問体系を作り上げ体現していく大学にはなかった、新しい仕事なのだと思う。ここで目下私たちが取り組んでいることは、かなり挑戦的なものなのであるに違いない。
樹状の体系が確固たるものとして存在するとして、その幹や枝を辿り、新芽を見つけるような学びは、樹上性の哺乳類たちのそれなのだろう。私たちがここで試みようとしているのは、花を探して樹冠から樹冠へとわたる、花粉のような自分になる学びのデザインなのかもしれない。