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#270

荒井寛方について
― 三上美和

図3 《観音摩利耶》部分

図2 《観音摩利耶》部分

(2018.06.03公開)

みなさん、こんにちは。芸術学コースの三上です。初めて「空を描く」のコラムを担当します。梅雨に入り紫陽花が色づいてきましたね。いかがお過ごしでしょうか。

みなさんは荒井寛方(1878-1945)という画家を御存知でしょうか。明治から昭和にかけて活躍した日本画家で、仏教をテーマに独自の作風を築きました。同時代、寛方と同じく日本画団体である日本美術院で活躍した横山大観、下村観山、菱田春草と比べるともうひとつ知名度が高くないようです。

私が荒井寛方を知ったのは、寛方が修士論文でテーマに選んだ原三溪の支援した画家のひとりだったからです。三溪は横浜で明治から昭和初期に活躍した実業家で、古美術の大コレクター、芸術のパトロンとして知られる人物です。横浜の和風庭園、三溪園を作ったことでも有名です。

現在は寛方も三溪が支援した画家のひとりとして十分認知されていますが、ひと昔前の三溪の研究史では、なぜか三溪とのつながりが忘れられていた感があります。理由はわかりませんが、寛方が終戦の年、法隆寺金堂壁画の模写に向かう列車のなかで急逝し戦後の活躍が見られなかったこと、その後、三溪と美術をテーマにした展覧会が開催されるなかで、大観、観山、今村紫紅、安田靫彦といった画家たちの蔭に隠れてしまったことなどが考えられます。

しかし実は、寛方は三溪が支援した美術家たちのなかでも、ひときわ三溪と関わりが深かったのです。そこで今回は寛方の生涯と三溪との関係を中心に、今考えていることを述べてみたいと思います。

寛方は三溪の支援に大変感謝しており、三溪の支援についてまとまった文章を残しています。それは三溪の最も詳細な伝記『原三溪翁伝』(藤本實也著、三溪園保勝会、横浜市芸術文化振興財団編、2009年)に収録された「原三溪先生」という文章で、ここで寛方は三溪を「終生忘れえぬ恩人」と記しています。また三溪の晩年、しばしば三溪園にも見舞いに通っていたそうです。

寛方によれば、そもそも三溪と知り合うきっかけは、寛方が勤めていた國華社の仕事で、三溪所蔵の平安時代の仏画の名品《孔雀明王像》(東京国立博物館所蔵)の模写のため、原家に滞在することになったことでした。滞在は2か月に及び、その間、三溪園内の山の上の別荘にひとりで泊まって、原家の家族と食事を共にし、お互いうちとけあっていったそうです。そして、三溪は模写中の寛方のところにやってきて、古画、名画の模写も大切なことだが、模写ばかりでなく、画家として世に立つ以上は自分の絵を描かなくてはならない、模写と制作を半々にして、制作中の生活の補助は自分がするから、と申し出たのです。これは寛方によると26、7歳のときで、これが三溪による美術家支援の嚆矢となったのでした。その後14、5年支援は続きました。

寛方は岡倉天心の死後、その薫陶を受けた画家たちによって大正3年に再興された日本美術院に参加します。そして翌大正4年、再興第2回日本美術院展覧会(再興院展)に出品された《乳糜供養》(東京国立博物館蔵、図1)により、三溪の支援の成果を出しました。本作品は釈迦が悟りを開いた際、スジャータから乳の粥を施された逸話を絵画化したもので、釈迦は描かれず、粥を持ったスジャータや牛がレリーフのように画面いっぱいに描かれています。本作品は高い評価を受け、寛方はこの年、日本美術院同人となりました。

図1 《乳糜供養》

図1 《乳糜供養》

この時三溪は寛方に手紙を送り、自分はまだ作品を見ていないが、下村観山がほめていたことから、おそらく良い作品に違いない、本当に良かったという心温まる祝辞を送りました。寛方はありがたさに感涙した、と述べています。

この《乳糜供養》の制作は、さらに寛方の人生の扉を大きく開くことになりました。そしてそこにも三溪が深く関わっています。

それはインドの詩人タゴールが来日し、三溪園に滞在した折、下村観山筆《弱法師》の模写を所望した際、その模写を寛方に依頼し、さらにインドで日本画を教える画家に寛方を推薦したことです(インド行きは大観、観山、三溪の三人で決定されたそうです)。寛方の随筆集『阿弥陀院雑記』(鵤故郷社、1943年)によると、タゴールの自宅で寝食を共にし、その人柄に感銘を受けたことを詳しく語っています。寛方の三女の記憶によると、寛方はよくインドの話や尊敬するタゴールの話を聴かせていたそうです。

そしてこのインド滞在中、アジャンター壁画模写の事業が立ち上がり、その役割を寛方が担うことになりました。寛方によるとこの時の資金は三溪の息子原善一郎が出したとされることから、原三溪、善一郎の二代にわたる支援を得たことになります。

寛方の作風は、初期の武者絵から歴史画を経て、次第に仏教をテーマにすることが多くなっていきました。インド滞在によって一時期はインド風の強い作風に変わりましたが、やがて《観音摩利耶》(東京国立近代美術館蔵、図2全図、冒頭部分図)のような、より静謐で格調高い作風へと昇華されていきます。

図3 《観音麻利亜》

図2 《観音摩利耶》

寛方は生活のため十年間國華社に勤務し模写を行いましたが、そこから仏教絵画の重要性を認知しました。また晩年従事した法隆寺金堂壁画模写事業もその画風に大きな影響を与えています。

先にも書きましたが、寛方は終戦の年の4月、法隆寺金堂壁画の模写に向かう途中、郡山の駅の列車の中で急逝しました。寛方の魂はまっすぐ法隆寺へ向かった、という、毎日新聞記者時代に交流のあった井上靖の追悼の一節が良く知られています。

寛方は没後、一時期忘れ去られた時代があったそうです。しかし作品が散逸しかけた時、遺族や関係者を中心に作品集が刊行され、故郷である栃木県さくら市(当時は氏家町)の有志たちにより顕彰されました。そうした努力が実り、地元に荒井寛方を記念した美術館も建設されました。寛方には三溪の他にも地元に後援会があり、疎開先でも画室が用意され、戦時中も生活に困ることはなかったそうです。

仏画を多く描いた寛方ですが、一点だけ風景画が残されています。それは大正3年、第1回再興院展に出品された《暮れゆく秋》(さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館-蔵、図3)です。残されたスケッチにより、実景に基きつつ、構図に変更が重ねられたことがわかっています。

図2《暮れゆく秋》

図3《暮れゆく秋》

本作品は一般入選作品であるため一定の評価がなされたといえますが、その翌年に描かれた《乳糜供養》の完成度の高さからは一歩譲る印象を受けます。《乳糜供養》は寛方の生涯を大きく変えた出世作ですが、その前年の《暮れゆく秋》との大きな違いに驚かされます。寛方の異色作といえる《暮れゆく秋》から《乳糜供養》を描くまでに、寛方になにがあったのか気になるところです。そこに三溪がどう関わっていたのか、これから考えていきたいと思います。

追伸:kuadブログに大観の《柳蔭》と三溪の関係について書きました。