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アネモメトリ -風の手帖-

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#271

景観のリテラシー
― 下村泰史

景観のリテラシー

(2018.06.10公開)

最近は猫の糞があって不潔であるとか、貝殻で手や足を切るといったことから、あまり人気が無いようだけれど、私が子どもの頃はよく砂場で遊んだものだ。
砂場にはいろいろな遊び方があった。コップ状の器に湿った砂を詰めてプリンのような塊を作り縁に並べたりしていた。これは砂の感触と形を楽しむ遊びであった。砂場を少し掘ると湿気を帯びた黒っぽい砂があり、それをつかうと乾いたさらさらの砂よりもかっちりしたかたまりを作ることができたのだった。次はこれをもりあげて高い山を作り始める。そしてトンネルをあけて道を作り、ビー玉を転がしたりした。山のために掘り抜いたくぼみには、バケツで水を汲んできて入れてみたりした。ビー玉や人形をそこで動かしていくうちに、私は小さな人になっていく。いつしか山と海と道のある風景の中で夢中になって遊んでいたのだった。いろいろなものを家に見立てて並べたりしていくうちに、砂場はちょっとした街の様相を帯びてくる。
思えば子ども時代には、この手の「街をつくる遊び」は多かったように思う。砂場だけでなく、室内でもそんなことをしていた。プラレールのような鉄道遊びも、だんだん箱を置いて建物に見立てたりしていくうちに、街のようなものになっていった。
テレビの子ども番組を点けてみると、着ぐるみだったりアニメキャラだったりする愉快な登場人物たちが跳ねまわっている。そして彼らは「○○町」の住民であり、タイトルバックにはその町を上から見た地図というか模型というかといったものが映しだされていたりした。
子ども時代には、山があり川があり道が通って家や学校が建っている「街」を、上から見ようとしたり、自分で配置を楽しんだり、ということが、大人になった今よりずっと身近であったような気がする。

こんなことを考えるようになったのは、私が京都造形芸術大学の「地域デザインコース」というところで教えるようになって以降のことである。今は組織が改編されてこの名のコースはなくなってしまった(方法を引き継いでいるスタジオはある)が、これは「建築デザインコース」「ランドスケープデザインコース」と並ぶ、環境デザイン学科の一コースであり、単体の建築や一敷地内の庭園・公園ではなく、「街」全体をデザインする専門課程であった。少しむずかしくいうと、建築群とオープンスペース群及びそれらをつなぐ道路等のインフラストラクチャーを、総合的にデザインするということをしていたのである。このコースの学生作品は、必然的に自分が考えた街の地図と模型になる。家が緑とともに並び道をあいまって風景をつくりだす、そういう場面をつくるのである。
この「地域デザイン」を教えていて思ったのである。これは、昔やってたことがあるのではないか。道を工夫して通し、意をこらした建物を並べ、美しい街をつくる…。これは、子ども時代にしていた、砂場遊びに代表される、街をつくる遊びの続きだったのである。

日本の街並みは、概ね醜い。伝統的な建造物が群としてよく残っているところや、統一的なデザインが図られた新市街地を除くと、色も形もばらばらの建物が好き勝手に並んでいるのが、普通の日本の街である。この都市景観の醜さにはいろいろな要因が絡んでいて、ここで逐一論じることはできないが、職業的な建築設計者(あえて建築家とはいわない)に、街全体の美に寄与する考えがあまりないこと、それからなにより、街に生きる普通の人々に、街の姿(景観)は自分たちが作るものであるという意識がない、さらには景観がどのような成り立ちをもちどのように生じているか知らない、ということが大きいように思う。要は、都市景観を読み取ったりそれをなんとかするための「リテラシー」が欠けているのである。
リテラシーが欠けているということは、教育の問題に直結する。そういえば、街並み保全や地域景観のデザインについて、中学校や高校で習った覚えがない。これは、市民として誰もが知っておくべき教養だと思うのだが、それを学んだことがないのだ。
子ども時代には、だれもが道を通したり家らしきものを並べたり、山を作ったりといったことに親しんでいたはずなのだが、その経験は学齢期を通じて発展させられるということはなく、受験体制のなかで要らないものとして中断され寸断されてしまう。大学でそうした専門性を選び取ったものだけが、改めて出会い直しているということなのだ。
もし、中高を通じて、砂遊びから発展して、街の空間のなりたちやそれを美しく快適にする方法についてみんなで学ぶ機会が与えられていたら、日本の都市景観はこんな惨状を示すようなことはないのではないか。

ということで、何が言いたいかというと、子ども時代から連続して、街のすがたをとらえたり、構想したりする遊び=学びが継続して行われるべきである、ということなのである。中高で砂場遊びを続けろとは言わないけれど(いや、精神の安定に良いかもしれないが)、そこから発展しての都市デザインの経験が、レベルを上げながら継続されていくべきだと思うのである。
これには大きく2つの対処の仕方があると思う。一つは今まで触れてきたような、子どもが街のデザインに触れ続ける機会を、授業なりクラブ活動なり地域の塾なりという形で確保するというものである。そしてもう一つが、そういう機会をこれまで持ってこなかった大人に向けての、教養としての都市デザイン教室である。

去る5月の末、京都大学で日本造園学会の全国大会が開催された。今年はスクーリングともうまく日程がずれたので、参加することができた。興味深い発表が多くいろいろ刺激されたし、その後の交流会でもいろいろな話が聞けてよかった。その折に、大学の同期で旧知のランドスケープデザイナーであるU氏から、「専門家が都市デザインの手法論をどんなに洗練させても、都市景観は美しくならない。市民のデザインについての見識、教養が高まらないといけない」という発言があった。これはまさに私の関心事でもあり試行をはじめたところでもあったので、話は大いに盛り上がった。翌日の研究発表会では、団地開発史におけるデザイン意図の考古学のような研究が集められたセッションを聴講した。座長からいきなり客席の私が指名され、前日の飲み会での「教養としての都市デザイン」について話すことが求められたりした一幕もあった。街のデザインを住民が理解していたら、という文脈でのことであった。

今日さまざまなNPOがまちづくりに取り組んでおり、ワークショップの技法も普及してきた。コミュニティ・デザインということばも一般化してきた。山崎亮氏以降のコミュニティ・デザインは、実空間ではなく複数の人が関わる場のデザインを指すようになったが、もともとコミュニティ・デザインという言葉に含意されていた、実空間のデザインについては、実は市民レベルでは等閑視されたままの状態が続いている。都市空間のなりたちを知り、それを美しく構想する技については、市民レベルでの共有はまだまだこれからなのだ。

そこで、今年度から試行的にはじめてみたのが、藝術学舎の「教養としての地域デザイン」である。今年度は4月28日(土)-29日(日)の2日間、大学近傍の住宅地と疏水沿いで、断面図の作成とゾーニングの試みから、都市空間のまとまり構造とそれを成り立たせる諸要素の採集を試みた。反省点は多々あるが、概ね好評だったようである。手応えは十分であった。市民向けのデザインサーベイ入門は、ありそうで、これまであまりなかった企画だったようだ。ここから、市民層への都市景観のデザインの実践への関心が広がっていくことを期待したい。

なんだか大げさな話になってきたけれど、要は、もう一度砂場遊びの続きをしませんか? ということなのだ。それも何人かでやるときっと楽しい。あなたも仲間になりませんか?

 

藝術学舎「教養としての地域デザイン」
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/gakusha/stgg/coursedtls/courseDetail/G1813101