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アネモメトリ -風の手帖-

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#251


― 川合健太

味

(2018.01.21公開)

地下鉄の乗り換え駅を出た裏路地にその定食屋はあった。乗り換えついでに昼食をとるため、週に二、三度立ち寄ることが習慣になっていた。老夫婦が営む、16席ほどのこぢんまりとしたお店で、定食のメニューは、「まぐろなかおち」、「めだい煮」、「肉豆腐」、「マイタケ・ソース ハンバーグ」の4つだけ。100円を足せば「しらすおろし」や「ポテトサラダ」、「きんぴら」といった小鉢も追加できる。定食についてくるみそ汁がすこぶる美味しくて、その味を言葉で表現するのは難しいが、「枯れた味」とでも言おうか。季節ごとに異なる7、8種類の具材がくたくたに煮込まれていて、ひと口飲むと別世界に連れて行かれる。まるで魔法のスープである。ちなみに150円を足せば、おかわりができる。先に老夫婦と書いたが、これまで店でした会話は、注文するときの「何にしましょう」、「なかおちとポテトサラダで」や、支払いのときの「ごちそうさま」、「いつもありがとうございます」のやり取りだけで、本当にご夫婦だったのかは未だにはっきりしていない。カウンターの中には、「まぐろなかおち」と「肉豆腐」、みそ汁をセットする(仮)ご主人。そして、カウンターの外には、「めだい煮」と「マイタケ・ソース ハンバーグ」、小鉢をセットする(仮)奥様。注文と同時にあらかじめセットされた定食が驚く早さで提供される。昼時ともなると、サラリーマンがひっきりなしにやってくるが、お二人のテンポ良い連携でお店は回転していた。
その日はカウンター席に座って「マイタケ・ソース ハンバーグ」と「きんぴら」を食べていた。すると、後ろのテーブル席に座っていたサラリーマンたちの「あぁ、残念だね」、「閉めるんだ」と話す声が聞こえてきて、「えっ、そうなの?」と我に返ってキッチンのほうを見たら、食器棚に「閉店のお知らせ」と書かれた黄色の紙が貼り出されていた。あと4日後に店を閉めるという突然のお知らせに、食べかけていたハンバーグが喉に詰まり、それをご飯で押し込むような息苦しさを感じた。「もう、このハンバーグを食べることができないのか」、「もう、このみそ汁を飲むことができないのか」。そうとわかった途端に、箸が止まり、これまで定食屋で味わった記憶があふれんばかりに蘇ってきて、涙までこみ上げてくる始末。こんな体験ははじめてだった。この味を作り出すにはお二人の力はもちろん、これまでの時間の積み重ねとこの空間が必要不可欠ではないか。そんな当たり前のことなのに、いつも気にもしないで食べていて、店を閉めるとわかった途端に気づいてしまう自分の愚かさと、これから先はこの味を口にすることができない虚しさとで、心にぽっかり穴が空いたみたいになってしまった。「せめてあと4日。毎日来て定食を食べよう」自分にそう言い聞かせて席を立ち、(仮)奥様に780円を支払い、「ごちそうさま。また来ます」とつぶやいて店を出た。

神保町冬至に店を閉めるなり 牛蒡