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アネモメトリ -風の手帖-

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#77

文学を生む土地?
― 上村博

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(2014.08.24公開)

つい最近、京都では文学が生まれない、という話を聞いた。むしろ「さいたま市」こそが文学を生み出すのだ、とも。

京都と埼玉とを対比させるのも斬新だが、これはたまたま両所にゆかりのある人同士が語っていたためで、実のところ、話題になっていたのは、文化の集積度や居心地の良さと文学との関係である。いわく、「さいたま市」は文化がなく、居心地が悪い。そのような荒地でこそ文学をやろうという人が出てくるはずだ。京都のような生ぬるい環境では文学は生まれない、と。ちょっと乱暴な議論ではある。実際にはもちろん京都でも文学はたくさん生み出されているだろうし、さいたま市が文学を生むかどうかも未知数だ。そもそも京都には文化があって、さいたま市に文化がないのか、という前提も確かめないといけないだろう。

ところで、「さいたま市」という例は、偶然出たものではあるが、結構おもしろいところを突いているのではないだろうか。これは単に都会と田舎といった比較ではない。さいたま市の大宮は何度か訪れたことがあるが、駅周辺の繁華なさまには大変なものがある。しかしまた同時に、その賑わいには、古くからの盛り場ということでもない、作り出された唐突な感じがつきまとう。朝から老人たちがカフェでだべっている京都とは違った、若々しい、そして浮き足だった賑わいである。そしてそれは日本の多くの地方都市に共通する性格である。埼玉には埼玉の昔ながらの文化もあるはずだ。しかしその土地の上に突如出現した「さいたま市」という百万都市は、自分が一体何ものなのかというアイデンティティをまだ持っていない。郷里と断絶して都会に出ようとする青年のような落ち着きのなさである。教育や職、異性や娯楽を求めて、そして自分の居場所を求めて、駆り立てられるように東京を目指した昭和の若者たちの姿は、個々の人間のそれというだけでなく、近代日本の地方都市のそれでもある。

これは地方都市の悪口を言っているのではない。都市は人間を自己疎外させ、同時に解放もする。うまくすれば、生まれながらの自分の環境を変えてくれるのが都市だ。地方都市はそれ自体、若者たちを呼び集めて夢を見させたし、またそれと同時に地方都市も、さらに大きな都市を夢見て、それに倣おうとする。人も都市も、もっと大きな何か、もっと違う何かを手に入れようとする。時間を常に先へ先へと進ませようとする。それは自分自身の否定でもあり、またそれこそ成長ということの本質でもある。
そして成長に伴う欲望や不安、焦燥や上昇志向は、いやでも自分や社会を強く鋭く見つめさせる。その現れのひとつが文学ではないだろうか。もう少し広く芸術や文化といってもよいかもしれない。成長途上の人間が集まる場所には独特の強い文化が発生する。東京のような大都市の文化も、実のところ、地方都市出身者こそがその源泉ではないだろうか。また東京に限らず、パリやニュー・ヨークでも、そこを代表する芸術家にはよそ者が多い。

翻って、生まれながらの環境に溶け込んで満足するのは、それはそれで結構な生き方である。いまや地方都市にも立派な文化施設(何が本当に「文化」かどうかはともかく)やショッピングモールが聳え立つ。ほどほどの外食、娯楽施設にも事欠かない。そして不満や欲望に目をぎらつかせるのではなく、諦念とともに、私的な繋がりを大事にして暮らせるなら、文学なんて要らないだろう。
もしかすると、そんなほどほどの安定を保つ地方都市こそ「小京都」と呼ぶべきかもしれない。しかし、さいたま市が小京都になることなく、いつまでも東京を志向する浮き足だった大柄な青年であるのなら、それはそれで文学を生み出す風土ではないだろうか。

実は、冒頭に書いた「京都では文学は生まれない」という言葉は、若者の発言である。そんな不満を持つ若者がいるのなら、京都もまだまだ小京都ではないのだろう。若者だけではない。京都には老成していない老人も結構いるし、老人には老人の成長と荒地があろう。

(写真はさいたま市の街角)