(2018.12.05公開)
僕にとっての民藝は、自然と自分を密接に繋げてくれる道具のことを言います。
これから小さな豆皿を通して、民藝との出会いのお話をさせていただきます。
「小さな豆皿、民藝との出会い」
ここにある豆皿は、江戸期や平成など様々な時代に作られた日用品です。本当かどうか、骨董屋さんが中国北宋時代(約1000年前)のものだと言ってたものも含まれます。
一概にして、とても素朴な豆皿たちです。
僕は、このような雰囲気を持った道具を作りたいと思っています。しかし、それはとても難しい事です。何が難しいかというと、これらの豆皿には、オリジナリティーを模索した形跡や、自己表現、作為というものが見て取れません。ただ使うための器として作られ、職人の個性を表層化するものではありません。現在、ものを作るという行為自体が、自己表現と密接に繋がっているので、それを飛び越え、脱個性的な道具を作ることは、なかなかできることではないです。
ではどうすれば、作為や個性を飛び越えた道具づくりができるのでしょうか。
僕たちは、小学校の図工の時間には、個性を求められましたし、人の真似をせず自由に描くことを推奨されました。また、自分の美術大学時代を思い起こせば、自己の内面を表現することが正当であるように教えられてきました。しかし、自分が器を作ろうと決心して「手本」にしたものは、そんな教育とは真逆にある「なんにもない」という境地の道具たちでした。
僕は、そんな「(作り手の作為など)なんにもない」道具を見たり、触ったり、使ったりすることで、とても豊かな気持ちになります。そして、そんな道具たちが、「民藝」と呼ばれている事を知りました。
ここにある豆皿たちは、まさに民藝の道具です。それらは、自己表現のための作品ではなく、日常使いの道具です。そんな道具には、華美な装飾や余分なデザインはなく、長い時間を経て受け継がれ変化してきた、用に即した美しい形があります。民藝の世界では、そのことを「用即美(ようそくび)」といいます。
用即美をもっともっと、深く理解することで、目指している「なんにもない」道具づくりに近づけるのではないか、そんなことを考えています。小さな豆皿から、民藝との長いお付き合いが、はじまりました。
「自然と人工」
普段何気なく過ごしていると、「自然」対「人工」という二項対立の構造で物事を考えてしまいます。もともと人間も自然の一部だというのに。
田舎の家の周りでは、春分から冬至にかけて笹や草花が生い茂り、放っておくと笹は竹になり、草花は木になっていきます。もっと放っておくと、家は、すぐに木々に包まれてしまいます。このように、森がすぐそこまで迫っている田舎の民家では、3~4年も放置すると動植物や微生物の働きによって、民家は、すぐに自然の一部となってしまいます。僕たち現代人は、自分のスペースを守るために、自然に還り難い建材を使用したり、除草剤を使うなど、様々な方法で自然の脅威に対抗してきました。断熱気密性に優れた住宅は、夏でも冬でもエアコンによって、年中快適な温度を保つことができます。
僕たちは、自然と手をつなぐことではなく、自然を制御したり、自然と敵対することで、現代人らしい快適な生活を獲得してきました。しかし、その結果、生活の中に四季や自然との接点を失うことになります。
一方で、休みの日には、日常生活で損なわれた自然を求めてか、山に登り、海に潜り、空を飛び、アウトドアがかつてないほどに流行しています。
それもそのはず、もとはと言えば僕たち人類は、自然の中に抱かれて生きてきました。故郷の自然を求めるのは、当たり前のことかもしれません。
人は、自然に触れることで、心が満たされたり、もの寂しくなったり、一言では言い表せない充足した感覚を味わいます。僕はそんな感覚のことを美しいと呼んでいるのだと思います。
これと同じように、ここにある豆皿を手のひらで抱えた時、雄大な自然に触れているような感覚になり、心満たされます。小さな豆皿が、人と自然の間にある境界を軽々と飛び越えさせてくれます。そして人間も自然の一部であることを思い出させてくれるのです。
僕にとっての民藝は、自然と自分を密接に繋げてくれる道具のことを言います。民藝の道具に触れることは、僕にとっての、まさにアウトドア体験なのです。さあ、一緒に民藝の世界にダイブしましょう。
岡本純一(おかもと・じゅんいち)
陶器作家・Awabi ware代表
2010年、故郷の淡路島に移住、器づくりが始まる。2016年「株式会社あわびウェア」設立、陶工として陶器制作に励む。
また、2018年には民藝入門書となるウェブサイト「ミンゲイサイコウ」を立ち上げる。
「Awabi ware」
http://awabiware.net/
「ミンゲイサイコウ」
https://mingeisaikou.com/