(2018.10.05公開)
京都に来てすぐは大好きな音に関わる仕事をしていたが、耳の疲れに気づきにくく、良くも悪くも精神状態を左右する。脳が混乱するくらい色々なジャンルの音を扱った後は耳にとっても静寂が必要になる。そういう日は裏山へ行き静寂の中でゆったりと眠るしかないと思った。
自然の中には季節が普通にあり、忘れていた大きな時間の流れに気づく。もうこんなに寒い、思った以上に生き物の音が多い、自分の歩く音がうるさい、呼吸がノイズだ。やっと気持ち良い場所を見つけて座って休憩したら汗の張り付く服、季節によっては凍え死ぬ。
葉が落ちただけで獣の気配に感じ、見慣れない虫の襲来だ、寝てる場合ではない。
すっかり自然を忘れていた僕は、京都に来てすぐ山沿いに住んだ時にこんな経験をしたのだ。一体静寂はどこにあるのだろうか。
子供の時に世界の山や川など自然の中を旅することに憧れて妄想を広げていた頃、父親の山道具などを眺めたり使ったりして、衣食住をどうやって持ち運ぶかを考えていた。ポケットの多いベストを着たり、頭陀袋にコッフェルと固形燃料やポンチョ、ボトル、望遠鏡を入れていたが、自分の持てる荷物は限られていて、必要とされるもの全部を詰め込むのは不可能だった。
実践の場が欲しかったが、当時はこづかいで自由に旅もできるわけでもなく、楽器を買ってもらったり、スキーに行きたくても、頻繁に親におねだりはできず、新しい道具が欲しいとか、遠いとこに行きたいとは言えなかった。
もし本当に行きたいところに行くチャンスがあればいつでも行けるように備えておこうと近所のハイキングで試したり、筋トレとかランニングをしてはいたが、町ではリアルな事ではなく、次第に音楽の方に魅力を感じて山への憧れは薄らいでいった。
その頃の記憶と妄想が京都に来て急に必要になってきたのだ。
生き返らせてくれる静寂に浸りたい。
毎朝、裏山をぶらぶらすると、自分の場所のように思えてくる。
日々の小さな変化が際立って印象に残る。
森の深さに惹かれて入っていく道なき道。
次第にコーヒーセットだけではなく、昼寝セットや、録音器まで持ち込み静かさを楽しむ事が多くなった。
その場で何がしたくなるかわからないので、荷物は多くなっていった。
困った時に助けてくれるのは色々な道具だと思っていたのだ。備えに備えてバックパックに大荷物を詰めて静かさの録音をしていたのもこの頃だ。
しかし、静かだが何かが違う。
自分が思う静かさは、耳だけで感じる事だけではなさそうだ。
ある日、半年もハイキングを続けて何千キロも歩く人の話を聞き、その最低限な装備を見た時、昔感じていた自然との関わり合いが蘇ってきた。
体と食事と睡眠があれば生きていける。
道具が多かったことが本質的に静寂から遠のいてるのではないか、震災もきっかけとなりカオスの道具知識から身体の工夫へ興味が移るのは早かった。
脚が重い時は脚と仲良くなるまで走ったり、なんとなく食べていたものを本当に食べたくなるまで食べなかったりした。
何を備えれば不安から解消されるかと考え、道具も最低限にしていった。サバイバルは一過性だが、ハイキングは続かないと意味がないので心地いいものをベースに選んだ。
表向きはハイキングだが、その遊びのために自分の体やその季節から本当に必要な事や道具に純粋に向き合う事は、無駄なものを持っていかないだけでなく、その場で何が起きるか、そしてその時自分は何が必要か、そしてその時自分は静寂にいるか、といった想像力まで使う。
そんな事をしていると他の生活の価値観まで変えられる。
今まで絶対に面白いと思っていた音の聞こえ方まで、もっとシンプルでいいかもと思える。
どの場所にいても起きた事がそのまま自分の中で受け入れられて、ただその出来事が流れていくのを見てる感覚。静かというより心地よい場を静寂と呼ぶのかもしれない。
どこに何を持っていくかを丁寧に考える想像力は、自分自身を見つめ直し、リフレッシュできるいいアイディアな気がしてきた。
僕は、定食屋で山の道具を売ったり、録音物を作ったり、3つの分野が交流する店をしている。
まだまだ、シンプルとは言えないけど最低限のわらじの組み合わせはリフレッシュできるはずだ。
東岳志(あずま・たけし)
河原町今出川の『山食音』店主、料理人、サウンドエンジニア。
日常的に調子を整える食事や、心地のいい場所に行くアイディアを仲間や地域と共有する事を目指している。