アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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パステル
― 鯵坂兼充

(2020.08.05公開)

大阪は北区本庄西と言う地区で「いとへん」と言うギャラリーを経営しています。絵を、写真を、立体造形を観る・・と言うだけではなく、コーヒーを飲みながら、本を読みながら、思い思いに時間を過ごして頂くための場所です。分かりやすくお伝え出来るとすれば、「カフェ・ギャラリー」と言ったところでしょうか。そんな形で2003年から始め、今日に至ります。
お店の経営だけでは、とても食べていくことは出来ないのが実は本音でして、同時にデザイン全般(チラシやダイレクトメール、料理屋さんのメニューであったり本だったり)の仕事を並行しています。言わば「兼業農家」スタイルですね。まぁ、こっちがダメならあっちで。「しなこく」生きるために、やれることはやっておこう! とそんな考えでいます。
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代後半には「絵本作家」になりたいな~、だったり「保父さんも良いな・・」とか考えていました。でも、それでは食っていけないだろうなぁ(食う、食えないの話ばかりですね苦笑)と思い、横文字職業の「デザイナー」だったら、儲かるんじゃないの~! とそんなカジュアルな動機で将来の行く先を決めたのです。当時はバブル前夜だったので、そんな雰囲気を鹿児島と言う場所に居ながらも感じていたのかも知れません。
私にとって「儲かる」と言うキーワードは実に重要なことでした。と、言うもの大変に貧乏な家だったんですね。飲食店を経営していた我が家。両親は両親で工夫を重ねたはずです。しかし、「需要と供給」のバランスが悪かった・・。
生まれて青春期までを過ごした鹿児島では、そんな環境から逃れることばかりを夢想したものです。「オラ、こんな村いやだ~、東京へ出るだぁ~」(私の場合は大阪ですね)は、私にとっては自分の事を全く言い当てられているようで、笑うにも笑えないリアル・ソングだったのです。
地方から都会へ。「一旗揚げて錦を飾る」つもりだった若かりし頃の私は、それこそ脇目も振らず、デザインの勉強に没頭しました。友達なんて作ってる場合じゃないと、本気で考えていたのです。
ところがどうだろう・・。生来の「天の邪鬼」な性分がムクムクとやおら覚醒し、私はアーティストを志すことになりました。そして、貧乏の道をまっしぐらに行進するんですね。おかしな人です。
そんな時期を経て、梅田にある小さな専門学校で「版画」を専門に教える講師として就職します。安定した道が欲しかったんですね・・。その間に様々な個性に出会いました。いくら才能があっても、花を咲かせるには東京に出るのが手っ取り早い。今でも残るそんな風潮に「?」が頭の中を占拠し始めたことが、その講師をした経験からでした。「よそ」から来たのでよく分かるんですが、この関西という地区は程よく都会で、同時に「イナカ」でもあると思っています。故に、地元の方が多い。住み心地が良いので移動する必要がないんですね。その環境が生み出すのか実にマイペースで、多彩な才能を持つ人が多いなぁ、、と言うのが私の考えです。この才能溢れる人たちを、ただビジネスになりにくいと言う切り口だけで萎ませるのは実に勿体ない・・。
そんな時、「子曰く、三十にして立つ」の額面通り、安定した職業(講師業)を捨てギャラリーを開設することに邁進し、サポート業務を中心にすることにしました。振り返ると、少々狂気じみた判断だったかと思います。「いとへん」は、これまでに様々なジャンルで活躍される方が展示をしてくれました。今ある「私」と言う存在は、まさにこの場所で変化を遂げ、培養させてもらった気がします。
基本的に私の仕事は「黒子」に徹することだと考えています。サポートをする人間が、舞台の中央にしゃしゃり出るものではない。そういう考えでした。ところが、アーティストを目指していた自分にフタをして、ガチガチに固めたはずの気持ちが2020年の2月に突然、何の前置きもなく、パカッと取れてしまいました。私の脳内ではその音さえ聞こえたほど。幻聴ではないですよ。きっと!(たぶん・・)。
「そうだ、絵を描こう」。封印して久しい衝動と画材を引き出しの奥から引っぱりだし、毎日続けられる仕組みは何だろうと考えた時、「パステル」が相応しいかも知れないと、使いはじめて今日に至ります。その気持ちは「絵日記」の形をとり、短時間で描けるパステルで描くことを基本方針とし、その日の言葉を添え、自身のインスタグラムにアップする日々を続けています。
実は、私にとってパステルは大変苦手な画材でした。描いてるそばから粉がポロポロ・・。あくまで「ドローイング」(私の解釈では、本番制作の前の練習、習作になるもの)の道具だと決め込んでいたのですね。何より若かった頃の体力では、実にナヨナヨとして物足りなく感じていたのです。でも、今の私にはこの「ナヨナヨ」が丁度良い。そんな年齢になったのかも知れません。
振り返ると、なぜ「パカッ」となったのだろう・・。気付かずに出来てしまった「空白」に、澱んだ空気に似た何かが充満したのでしょうか。または、その「空白」に恐怖を感じたと言っても良いかも知れません。仕事は仕事で、私は私であることの認識(村上春樹さんが紹介していた映画の言葉を拝借するとボートはボート、ファックはファックが当てはまります)を、毎日数分でも良いから「掴み取る」必要を感じたのだと思います。
みなさんがもれなく経験した、「コロナ」。自粛要請を真摯に受け止めて、なるべく外に出ない日々を過ごす方も少なくなかったはずです。私もその一人でした。不安しか積もらない毎日に、風穴を開けてくれる存在になったのが、このパステル=絵日記だったのです。流行が肥大するちょっと前に見つけたこの方法。私にとったら実に安上がりな「自己治療」であり、「気分転換」になっているのかも知れません。よくぞ微小な「パカッ音」に気づいたなぁと、自分の事を褒めてやりたい気持ちでいます。
と、ここでご提案。
絵でなくても良いのですが、言葉や詩、なんだったら小説や踊り、楽器でも何でも挑戦してみたいことがあったら、10分。その時間は何がなんでも、と取り組んでみたらいかがでしょう。「好きこそものの上手なれ」。まさにその通りだと体感して頂けるのではないでしょうか。
だってアレです。心が「晴れる」なんて、とっても気持ちの良いことですから!

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鯵坂兼充(あじさか・かねみつ)

1971年鹿児島県川内市生 (現:薩摩川内市)。グラフィックデザインを学ぶ為単身、大阪へ 
上田学園 大阪総合デザイン専門学校 グラフィックデザインコース 特待生として研究科修了。
卒業後、大阪府の文化事業に参加。森喜久雄:壁画スタッフとしてインドネシアへ。
修了後、銅版画による作品制作を開始。株式会社クル:インテリアデザイン事務所へ勤務。家具、照明などオリジナル造作物制作担当として勤務。大阪総合デザイン専門学校:商業美術コースへ専任講師として勤務。銅版画、シルクスクリーン(プリントメイキング)を中心に担当。 2001年に独立。
グラフィックデザインを中心としたSKY GRAPHICS設立。 2003年に大阪市北区本庄西にギャラリー業務を主体とした複合施設<iTohen>開店。 有限化にともない商号を<(有)SKKY(スカイ)>へ 変更。現在、グラフィックデザインを中心に活動。また各作家のサポート及びプロデュースを行う。2004年~2011年の間には、美術作家:森口宏一氏の制作アシスタント兼任。
2001年から20203月まで大阪総合デザイン専門学校ヴィジュアルコミュニケーションデザイン学科 非常勤講師を兼務。
NPO
法人アーツプロジェクト 外部受託デザイナー。大分県日田市を舞台とした団体『ヤブクグリ』web係。
instagram:https://www.instagram.com/kanemitsuajisaka/

iTohen / Books Gallery Coffee:http://www.itohen.info/
SKKY:
http://www.skky.info/
iTohen / SKKY facebook:
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iTohen instagram:
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