(2021.08.08公開)
2019年にオープンした、金沢にある寿司と和食の料理店「はた中」の料理長をつとめる畠中亜弥子さん。31歳という若さながら、その経歴は多彩だ。奈良の老舗旅館に生まれ、京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)で木版画を学び、卒業後は京都で和食の料理人となった後、海外で寿司職人としてカウンターに立った。そしてひとつの店を取り仕切る料理長として、金沢にやってきた。畠中さんはなぜ美術を学んだ後、料理の道にすすんだのか。そこにはどんなつながりがあるのだろうか。これまでの経歴とともに伺った。
———畠中さんが料理長をされている料理店「はた中」のほかとは違う特徴は何でしょうか。
本格的な和食とお寿司をどちらも食べられるお店って、意外と少ないんですよ。わたしは和食の料理人からスタートして、海外でお寿司の職人になったので、どちらもできるというのが特徴です。外国人のお客さんが来られたとき、作り手のわたしが直接、英語で会話して料理を説明できる店というのもあまりないですね。
それにスタッフ全員が若いので、敷居の高さを感じることなく、若いかたもくつろげると思いますし、そういうお店づくりを心掛けています。
———京都芸術大学を卒業して料理人になったそうですが、大学で学んだことで今、活きているのはどんなことですか。
大学には彫刻で入って、転科して版画をやっていました。そこで学んで今、一番よかったと思うことは、自分がつくりたいものにたどり着くためのプロセスを考え、繰り返し練習できたことです。作品を制作するにあたって、どうしたらよりよいものになるのか悩んで考えたことが、料理人としても活きていると思います。
———ものをつくるための根本的な考え方が活かされているんですね。
そうですね。特にこの店を任されたときから、それは意識するようになりました。店に足を運んでくれたお客さんに喜んでもらうためには、おいしい料理を提供するだけではなくて、居心地のいい空間をつくることも重要なんですね。照明やBGM、机やイス、器など、すべて含めたものが店の魅力になります。
自分がものを選ぶセンスや、どんなところに気を配るか。美大で学んで美術館にもよく行くようになって、いろんな作品をみてきたからこそ、ものの色やかたちに対する意識が養われたと思います。
そうして選んだものをひとつずつ配置していくのは、店全体がひとつの大きな作品という感じがあります。でも作品制作と違うのは、自由な要素が意外と少なくて“しばり”がたくさんあることです。
料理店をやっていると、お客さんに喜んでもらうことが最終目標になります。ですから自分の「こうしたい」という表現に対して、さまざまな制約というか“しばり”が出てきます。でもその“しばり”があるからこそ、作品制作より精神的には楽でたのしいと思います。
———制約をプラスに捉えているんですね。
作品制作はわたしにとって自分の内面を掘り続けることになるので、つくる喜びもありますが、制作中は辛いんですね。自分の表現に向き合うと、いくらでも考えることができて出口がなくなってしまうんです。でも“しばり”があると、そこに答えがみつかるというか、見切りをつけられるというか。
例えばメニューを考えるときも、何もないところから自由に発想するのではなくて、市場に行けばそのときどきでいい食材がみつかります。それをピックアップして、料理やコースを組み立てるので、はじめから選択の幅が決まっているんですね。そういう意味で作品制作より精神的な負担は少なくて、いつも明るくいられます。
———逆に、作品制作と料理にはどんな共通点がありますか。
まったく別のフィールドに行ったとは思っていないんです。さっきは店自体がひとつの作品のようだといいましたが、料理はさらに芸術に近いと感じます。食材の組み合わせとか色彩のこととか、盛りつけとか、作品をつくっている感覚とかなり似ています。
わたしが木版画をしていたことも関係あるかもしれませんが、包丁を研いで道具をメンテナンスすることも、その道具を使って料理をつくるプロセスも、作品制作をするときと使っている脳の部位は同じ気がします。
木版画はひとつの版を彫り、刷っているあいだに“ずれ”が出てきたりします。自分が意図していなかったその“ずれ”が、想像以上にいい感じになることがあるんです。料理も同じで、食材はひとつずつ微妙にちがいますし、同じように調理しても自分のイメージと違うものができることがあります。だけどそれが思ったよりおいしかったり、たまたま手に入った食材の意外な組み合わせがすごく良かったりするんですよ。
———かたちが整った均一な製品もいいですが、手づくりならではの少しの“ずれ”がいいという感覚もわかります。
そうですよね。同じ料理でも、毎回完全に同じ味というのも、すごく不自然なことだと思っています。今日食べたものと同じものを、1ヵ月後に食べたいという気持ちもわかります。でもそうした均一なものを求めすぎると、添加物を使ったり手を加えすぎたりして、自然なものから遠ざかっていく気がします。
お客さんに喜んでもらえるおいしいものをつくることがいちばん重要であって、毎回完全に同じということには特にこだわっていないんです。ですからうちで使う食材も、見た目はそろっていなくても、味が濃くて採れた土地の特徴が出ているものを仕入れています。それにワインや日本酒もつくった年によって味が違うことや、開栓してからの味の変化があることが自然だと思います。その違いや変化を楽しめるようなものを置いています。
器もそれぞれ違っていたりするものがかわいく思えます。同じ絵つけでも線が微妙に違っていたりするような。そういう少しの“ずれ”とか“ぶれ”は、趣が感じられてすごく好きですね。
———手づくりならではの趣がいいという感覚、よくわかります。ここからは、これまでのことについてお聞きしますね。そもそも畠中さんはなぜ、美大で学んだのでしょうか。
わたしの実家は、奈良県の天川村にある旅館なんです。自然豊かな天川村のことが好きですし、中学生のころからいずれは実家の旅館を継ごうと思っていました。周りの人間は商売っ気があって、わたしも自然と「こんなお土産をつくったらたくさんの人に買ってもらえる」とか、そんなことばかり考えていました。
美術の分野に進んだのは、もともと絵を描くことが好きだったのと、いろんなひとに喜んでもらうものをつくるセンスを身につけたかったからです。美大で学べば、お土産をつくるときもパッケージのデザインに役立ちそうですし、いろんなことに活かせると思いました。
———卒業後に料理人になったのはなぜでしょうか。
料理をすることやお酒を飲むことが好きだったのもありますが、実家を継ぐためというのがいちばんの動機でした。はじめのころはスローながら作品の制作もしていましたが、料理人との両立はかなり無理がありました。
体力的、時間的にもぎりぎりで、1日18時間くらい働くこともありました。美大で自由に生きていて、人と違うことを肯定的に受けいれてもらっていたのが、わたしが入った料理の世界は完全な体育会系の男社会で、人と違うということがすごくネガティブな意味に変わりました。それが体力的なことより辛かったですね。
それから京都の和食店からおばんざいの店、和菓子屋などを渡り歩いて、マレーシアの寿司店で働くことになりました。
———そこから海外の挑戦になるんですね。
京都の料理店で働いていると、海外からのお客さんがよくこられるのですが、店の人間は片言の英語で対応できればいいほうです。日本人のお客さんであれば、カウンターに座って料理人と会話することができます。「これ、今朝とれたものですよ」とか「今の時期は脂がのっていておいしいですよ」とか、そんな軽い会話も言葉がわからないとできません。
英語が話せるひとがいたとしても、料理を正確に説明できないんです。例えば「甘鯛の松かさ焼き」を説明しようにも、「うろこに熱した油をかけてパリパリに立たせて焼き上げてあるので、うろこのパリパリと身のジューシーな感じを楽しめます」と、その場で英語で伝えられる料理店はなかなかありません。
料理のなかでも和食は、“知識と一緒に味わう”という面が大きいと思います。さっきも言ったように、料理店ではただ料理を食べるだけではないんですね。さまざま要素を含めて楽しむ場所なのに、言葉がわからないとその中の大きなひとつが欠けてしまうわけです。だからわたし自身が、英語ができる料理人になりたいと思いました。
料理人をしながら英語を学ぶため、マレーシアのクアラルンプールにある寿司店で働き口をみつけました。そこでは毎日カウンターに立って、お寿司を握って会話をして、料理の腕も英語もすごく鍛えられました。お客さんに話しかけられてじっくり文章を考えているわけにはいきませんし、急に「シェフは何人家族だ」とか個人的なことも聞かれたりします(笑)。そうして現場で鍛えられて、英語が言葉になって出てくるようになりました。
———その後、「はた中」の料理長になった経緯を教えてください。
この店のオーナーの吉岡(合同会社グッドネイバーズ代表・吉岡卓也氏)は、金沢でゲストハウスをいくつか経営しているんですね。そこに泊まる外国人がよく「寿司が食べたい」というそうなんです。それで外国人向けの寿司屋を開こうと思って、英語が話せる若い寿司職人を探していたところ、マレーシアにいたわたしに知り合いを通じて話がきました。吉岡とスカイプで話すと、とても気が合う感じがして、以前行ったことのある金沢もいいところだったなと(笑)。それにお店を任せてもらえるなんて滅多にないチャンスですから、マレーシアに3年いる予定を半分ほどで切り上げて金沢にやってきました。
———最初の計画から“ずれ”ることを楽しみながら受け入れて、今の立場になったんですね。今後はどのような目標がありますか。
はじめは地元の天川村に帰って、家業を継ぐとかお店を開くとか、地元の活性化にもつながることをしてみたいと考えていました。今でもそれは思っていますが、この店を任されてから、他にもいろんな夢が出てきました。
なかでも吉岡と一緒にやってみたいことがあります。今はコロナ禍で飲食店やゲストハウス業界は事業を拡大することは難しいですが、将来的には海外も含めて拠点を3つほど持ちたいという吉岡の構想があります。
わたしもそれは素敵なことだと思っています。例えば違う土地にも「はた中」というお店があって、それぞれの地域でおいしい食材を交換できたらいいですし、スタッフが行き来できれば刺激にもなって新しい学びもあると思います。
先ほどの“ずれ”とか“ぶれ”がいいという話に通じると思うのですが、わたしがひとりでカウンターだけのお店をやっていたら、料理にしても店の雰囲気にしても、自分のイメージを越えることは難しいと思います。でも今は何人かスタッフがいて、仕事を任せていると自分の考えたこと以上によくなることがあります。
「絶対にこうしたい」という考えにとらわれるより、少し遊びがあるほうがさらにいいものになる可能性が広がりますし、作り手として楽しさもあります。
ひとりで何かをするより、いろんなひとを巻き込んでチームでものごとに取り組むほうが自分の想像を越えて面白いことができると思います。これからそんな生き方をしたいですね。
取材・文 大迫知信
2021.06.11 オンライン通話にてインタビュー
畠中亜弥子(はたなか・あやこ)
奈良県天川村出身。実家は旅館を営み、家業を継ぐことや地元の活性化につながる職業を意識するようになる。美術を学び多くの人に喜んでもらえるセンスを身につけようと京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)美術工芸学科に進学。卒業後は家業に役立てようと料理人になることを決意し、京都の和食店で働く。和食店からおばんざい店、和菓子屋などを渡り歩き、外国人を英語でもてなせる料理人が少ないことに気がつく。そして自らが英語が使える料理人になるため、マレーシアの寿司店でカウンターに立つ。その後、金沢でゲストハウスを運営する合同会社グッドネイバーズの吉岡卓也氏に、英語が使える料理人として見いだされ、2019年より「はた中」の料理長となる。和食店と寿司店で磨いた料理人としての技術と、マレーシアのカウンターで培った英語力を活かし、国籍を問わず幅広い層の客をもてなしている。
大迫知信(おおさこ・とものぶ)
京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)文芸表現学科を卒業後、大阪在住のフリーランスライターとなる。自身の祖母の手料理とエピソードを綴るウェブサイト『おばあめし』を日々更新中。祖母とともに京都新聞に掲載。NHK「サラメシ」やTBS「新・情報7DAYS ニュースキャスター」読売テレビ「かんさい情報ネットten.」など、テレビにも取り上げられる。また「Walker plus」にて連載中。京都芸術大学非常勤講師。
おばあめし:https://obaameshi.com/
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