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アネモメトリ -風の手帖-

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#218

マイノリティを超えて
― 岩手県花巻市

今回はアートと障がいを通した、この社会や人生の本質に迫るお話です。
最初に私自身のことを少しお話しさせて下さい。高校生の頃から持病(法制度上は障がい)を患っている私は、以来、その症状の辛さもさることながら、症状を背負うことで、周りとは同じように生活できないこと、また障がいそのものに対する周囲からの無理解や偏見に苦しめられてきました。現在はそうしたことも減りましたが、それは症状が良くなったからであり、この障がいに対する社会の理解が高まっているからではありません。ある仕事では、障がいに対する上司からの理解を得られず、これを主な理由に有期雇用の更新ができなかったこともありました。公立の美術館でのことでした。
障がい者理解や多様性が叫ばれる昨今、しかし現実の社会は、果たしてどれだけその理想に近づいているでしょうか。その思想が社会や人々に深く浸透することなく、耳ざわりのいい合い言葉だけが流行っては廃れ、を繰り返しているようにさえ感じます。そうならないために、本来は社会に根差す様々な問題や、物事の根底を流れる思想に、一人ひとりが触れなければなりません。

美術館の外観。よく見ると外壁のデザインには「るんびにい美術館」の文字が。これも作品です

美術館の外観。よく見ると外壁のデザインには「るんびにい美術館」の文字が。これも作品です

岩手県花巻市に、主に知的障がいや精神障がいのある方の作品を展示紹介する場、るんびにい美術館があります。ここは社会福祉法人が運営しており、1階が作品を展示するギャラリーやカフェ、2階は創作活動が行われるアトリエとなっています。「るんびにい」とは古代インドの地名で、釈迦の誕生地から付けられています。
障がい者の制作する作品は、しばしば「アウトサイダーアート」或いは「アールブリュット」などと呼ばれますが、ここでは扱う作品を「ボーダレス・アート」と呼びます。なぜ、ボーダレス・アートと呼ぶのか。そもそもボーダレス・アートとはなにか。この美術館の使命を紐解いていく過程で、様々な思想や視点に出会い、最後は私たち皆に繋がっていくことに気付かされます。アートディレクターの板垣崇志さんにお話を伺いました。
そもそも「障がい」という言葉は、何かできないこと、或いは欠けているといったこと自体を指すものではない、と板垣さんは仰います。そうではなく、一人の人が生きていく上で起こる様々な困りごと、これが障がいなのだと。つまり、その人が持っている(持っていない)特徴を指して障がいと呼ぶのではなく、生活に問題が生じる、その状況の方が障がいだということです。ですから、その状況を当事者と共に乗り越えることが障がい者支援と言えます。そうであるならば生活上の問題が人により様々であることは、容易に想像がつきます。「障がい者」という言葉は、その法制度上の使用も相まって、該当する人々をひとまとめに括ってしまいます。しかし板垣さんは「障がい者というぼんやりとした低い解像度で議論はできない。もっと解像度を上げ、一人ひとりに目を向けなければならない」と指摘します。
生きていく上での問題は障がい者、或いは健常者問わず様々です。だとすれば、障がい者か、そうでないかといった見方はあまりに大雑把過ぎるのです。それぞれ異なる問題を抱えた人を一人ひとり見ていかなければなりません。そして、るんびにい美術館が私たちに提供しようとしているものは、この「物事をみる解像度を高め、人が人を個々に感じられるようにすること」にあると言います。

ギャラリーの様子

ギャラリーの様子

この美術館のホームページには、板垣さんのメッセージが掲載されています(註1)。その冒頭には「(館の)事業にとっての本質的な課題は、あらゆる社会的マイノリティ〈少数派〉への社会の疎外という問題です。一生をマジョリティ〈多数派〉で過ごせる人はいません。どんな人も病と老いによって必ずマイノリティとなり、この問題の当事者になります」とあります。ここには、障がい者かどうかといったこと以前に、この社会にはマイノリティとマジョリティがあり、マイノリティを疎外する構造であること、そして私たちは必ずマイノリティの立場を経験するという、すべての人に関わることが語られています。そしてこの問題が美術館の事業の根底にあるというのです。
私たちはどこかで、障がいはその当事者の問題であり、それに関わる限られた人や場所の中で解決されればよいと思っていないでしょうか。しかしそれは、例えば誰にでも訪れる病や老いといったことにも当てはまります。私たちは、障がいをマイノリティという概念に還元することで、病や老いと同じく、それが他人事ではないことに気付かされます。
さらに板垣さんは「自分は自分一人しかいない。それは実は『個人』というマイノリティ。だからマイノリティを無視することは一人ひとりの個を無視するということ。『あなた一人にかまっていられない』という世界では個人が切り捨てられてしまう」と仰います。今ここに存在する「わたし」「あなた」とは究極のマイノリティなのです。ですから板垣さん曰く「障がい者理解とはゴールではなく、世界にただ一人だけの『あなた』が認められる世界への入り口にすぎない」のです。
これを踏まえると、私たちの間には障がい者か健常者か、アウトサイドかインサイドか、といった区別はもはや存在しません。私たちはすべて、様々な特徴を持ちながらも、一個の命に還元されます。そう、だから「ボーダレス」なのです。
この美術館で展示される作品は、どれもユニークで不可思議で謎めいています。しかしそもそも、人は他人にとって、ユニークであり、不可思議で、謎めいたものだと板垣さんは仰います。その上で「多様性と簡単に言うけれど、他人は理解不能かもしれない。でもその謎、違いが素敵。そこには、あなたはあなた、ということを認め合う安心感がある」といいます。
完成され決まりきった技術や表象で覆われず、作者の命がむき出しになっているこれらの作品は、作品であると同時に作者自身とも言えます(註2)。一人の「あなた」に出会える、それがこの美術館、ひいてはこの世界です。

アトリエでの創作の様子 (るんびにい美術館提供)

アトリエでの創作の様子(るんびにい美術館提供)

るんびにい美術館 命のミュージアム
https://www.kourinkai.net/museum-lumbi/

(註1)
るんびにい美術館 命のミュージアム「アートディレクターからのメッセージ」、
https://www.kourinkai.net/museum-lumbi/about/message.html

(註2)
日本社会の問題や芸術の表象、障がいを持った方の表現については、多木陽介『(不)可視の監獄 サミュエル・ベケットの芸術と歴史』のなかで興味深く論じられています。

参考
多木陽介『(不)可視の監獄 サミュエル・ベケットの芸術と歴史』水声社、2016年。

(大矢貴之)