アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

TOP >>  特集
このページをシェア Twitter facebook
#29
2015.05

奥能登の知恵と行事 息づく豊かさ

後編 根ざした土地で、見出した価値を伝える
1)思わぬ縁から「ふるさと」に出会う

奥能登をはじめて訪れたのは2000年、紀一郎さんが36歳のとき。3年半のアメリカ生活を経て1996年に帰国し、東京の建築事務所を経て、独立して設計していた頃だ。妻のゆきさんが手漉き和紙のを体験をするとともに、子どもたちの山村留学を兼ね、古い民家を借りて夏の2ヵ月を過ごした。

——妻は渡米前から手製本を学んでいて、アメリカでは日本の紙漉きを習っていたんです。日本でも紙漉きを体験してみたいと、東京・麻布十番で和雑貨店「ブルー&ホワイト」を営むエイミー加藤さんの紹介で奥能登の和紙工房、仁行和紙(にぎょうわし))とめぐりあいました。子どもたちには日本の暮らしを経験してほしかったので、能登はうってつけの場所だったのです。(紀一郎さん)

まるやま組の活動でもゆきさんお手製の和紙が使われている

まるやま組の活動でもゆきさんお手製の和紙が使われている

希望と一致し、たまたま選んだ場所だったが、奥能登の風景や地元のひとのあたたかさに、萩野さん夫婦は想像以上に強く心を動かされたという。

——東京育ちで「ふるさと」というものがなかったせいか、奥能登に息づいている昔ながらの暮らし、ひとのつながりにカルチャーショックを受けました。帰国後、アメリカ生活の反動もあり、左官や大工による伝統的技法など、仕事においても、これまで目を向けていなかった日本のよさに気づき始めた時期でした。(紀一郎さん)

2001年、家族そろって再びアメリカへ。幸いにも設計の実務に恵まれ、フィラデルフィア郊外で充実した日々を送る中、夏は能登で過ごすのが恒例となった。

——前回の渡米から変わったのは、日本に関わる仕事が増えたことです。和紙など日本の手仕事を紹介する仕事をしたり。裏千家でお茶を習ったり、吉村順三が設計したフィラデルフィア郊外の日本建築「松風荘」の保存維持にも携わりました。アメリカにいながら、日本の素晴らしさを感じる日々でしたね。永住も考えていましたが、長男の小学校卒業や9.11後、アメリカ社会が不安定な状態だったことも重なり40歳となったときに急に思い立ち、能登に移ることを決めました。それまで日米で学生さんたちとワークショップで小屋づくりなどを指導していましたけれど、今度は自分が手を動かして自分の家をつくろうと思い、そのためには能登は木材もたくさんあるし、土地も安いし、最適と考えました。感覚としては「日本に帰る」というよりも、「能登に小屋をつくろう」という感じでした。一年にひとつふたつ仕事があれば住み続けられるかな……というような、最初はそんな感覚でしたね。(紀一郎さん)

一方、ゆきさんはそんな紀一郎さんの決断に驚き、「いい季節だけ過ごすのと、暮らすのは違う」と、反対したそうだ。土地に根ざすには、それ相応の時間と覚悟が要る。予想的中とばかり、滑り出しは前途多難となった。紀一郎さんは移住前に、三井町市ノ坂の集落の外れに土地を確保していたが、家づくりは遅々として進まない。仮住まいの古民家は、都会の生活からすれば不便で、ストレスになったという。「能登は日照時間も少なく、気持ちがうつむきがちで。家ができるまでの5年間は正直、悶々としていましたね(笑)」(ゆきさん)。

手に入れた土地は、傾斜のある手つかずの雑木林。家づくりは木を伐り出すところから始まり、地元の職人や友人、学生たちの手を借りて、できるところは自分たちで行った。半セルフビルドだから、どうしても時間がかかる。さらに、地元の大工さんは時期によっては田んぼが忙しく、思うように作業が捗らない。
家づくりを遅らせる、不測の事態もつづく。2006年秋、紀一郎さんが玄関先でマムシにかまれ、命の危険にさらされる。2007年3月には、能登半島地震が直撃。詳しくは後述するが、紀一郎さんは仲間と輪島土蔵文化研究会を立ち上げ、土蔵や民家の修復に尽力することになる。その間、家づくりは完全にストップ。けれど、自ら進んで動いたこの活動は、伝統を受け継ぐうえでも、奥能登に根ざすうえでも、意義のあるものとなる。
かくして、2008年の暮れにようやく自邸が住める程度まで完成する。広々としたLDKは窓が三面に渡り、目の前に集落の田畑が広がって開放感にあふれる。能登の林業を支えてきたアテの木と呼ばれる、能登ヒバがふんだんに使われ、なんとも居心地がよい。自分らしくいられる居場所ができて、気持ちも前を向くようになった。

——ここに住み始めて、視界が開けました。夫は土蔵の修復に奔走していましたが、わたしはなかなか居場所が見出せなくて。「能登は素晴らしい」ってさんざん言っていたのに、いざ日常になると都会と比べて何もないように感じていたんです。自分にあるもの、まわりにあるものをもう一度、洗い出してみよう。何もないなら、わくわくすることを自分でつくり出そう。それでダメなら東京へ帰ればいい。そんなふうに気持ちを切り替えることができました。(ゆきさん)

IMG_5949

(2点とも)購入した土地に生えた木々の伐採から入居まで、4年かけて半セルフビルドで建設された萩野家。萩野家のリビングはまるやま組の活動時にオープンキッチンとして開かれる

(2点とも)購入した土地に生えた木々の伐採から入居まで、4年かけて半セルフビルドで建設された萩野家。萩野家のリビングはまるやま組の活動時にオープンキッチンとして開かれる

* 松風荘
フィラデルフィア郊外のフェアマウント公園にある、日本建築及び庭園。吉村順三が設計し、木曽の国有林の檜を用いて、宮大工棟梁、第11代伊藤平左エ門が施行を管轄した。吉村順三は、日本の伝統とモダニズムの融合を図った、日本を代表する建築家。「東山魁夷邸」「俵屋」「奈良国立博物館 新館」「八ヶ岳高原音楽堂」などのほか、皇居新宮殿の建築に関わった。