3)他者の痕跡を感じる 細馬宏通との対話3
伊達 建築物からウクレレをつくるというとき、建築物の保存を専門とするひとが定義のズレを指摘してくださるんです。それは「縦糸」の正しい意見だなと思いながら聞いているんですが。
細馬 手に馴染むかたちにしたり、それを持って移動できたりというのは、いわゆる保存や修復とは違う面白さがありますね。ポータブルになると、いろんな場所に持っていって、その場のものや環境と比較できる。ウクレレのかたちを決めるときは聞き取りが鍵になったりしますか?
伊達 そうですね。「この穴は誰が開けたんですか?」とか。あるいはパっとみた印象の色の組み合わせは記憶に残るから、その由来を聞いてみよう、とか。老朽化して塗装が剥げてきたりすれば、それはつまり時間の集積なのでそのまま取り出す。座るような場所の手垢、シールや落書き、引っかき傷を残したり。そんな感じなので、僕がなんでその痕跡ができたのかを聞くことが多いですね。
細馬 聞く前は、そのひとたちはそこにそんなこだわりを持っていない?
伊達 そう思いますね。第三者がしつこく聞くことから初めて言葉にするっていう感覚じゃないかな。家のひとの記憶をひっぱりだしてきたり、話がふくらんだら、それが材料になる。
細馬 それも電柱っぽいですね。依頼者の意識にすでに引っかかっているものが中心とは限らない。むしろ意識に引っかかっていない痕跡が、聞き取りを通して、ウクレレとなって戻ってくる。
伊達 ひとの痕跡を見つけるのってすごく楽しいんですよね。草ボーボーだけれど昔あったはずの道を辿ると、かつてのひとの体さばきを追体験できるような気持ちになる。
細馬 ひとの残した痕が古ければ古いほど、そこを蝶番(ちょうつがい)のようにして、僕らの意識がいつもは届かないところまでリーチできる。手紙とかハガキ、古文書。誰かが書いた古い文字を介して、一気に平安時代まで遡る感じ。
伊達 直筆はイメージの手助けになりますね。
細馬 それって触覚的なんだと思う。古文書を教科書で読んでいてもそこまでグッとこない。ところが実物だと紙の大きさも分かるし、筆の運びもそのまま分かる。そこから使ったひとの身体が立ち上がる。
伊達 パソコンでは再現できないものがありますね。
細馬 パソコンで拡大するとわかることもたくさんあるんですが、やっぱり、あのサイズでみんな使っていたわけで、原寸の感覚は大切ですね。スケールアップ、スケールダウンしすぎると見えなくなることがたくさんある。
この前、夏目漱石の『我が輩は猫である』に出てくる絵はがきを手に入れたんですよ。林丈二*さんに教えてもらって。先生の元に猫のご機嫌をうかがう賀状が集まるっていうシーンがあって、そのなかで4、5匹の猫が写っている不思議な洋風の絵はがきが送られてくるわけです。林さんはさすが路上観察のひとで、「この絵はがきは元になったものがあるに違いない」って思いついた。舶来の絵はがきだから、当時漱石が親しんでいたイギリスだろうと。現地に行って探したらあったらしいんです。そして僕も手に入れた。
伊達 まず「あるはずだ」って思うのがすごい。イメージの跳躍がいりますよね。
細馬 林さんから聞いたときは「やられた」と思いましたね。僕もまだまだ修業が足りない。でも、遅れをとったものの、現物を手に入れたのは良かったです。漱石が原稿用紙のそばにこの絵はがきを置いて書いていたんだろうな、という身体感覚が立ち上がるとまた考えが広がっちゃう。この感覚は、拡大したり縮小したりしたら立ち上がらない。原寸大のものを置いてみると立ち上がるのです。ものを手にいれるって面白い。ものは大事です。
* 1947年生まれ。イラストレーターでエッセイスト。調査マニアで、路上観察学会の会員としても活躍する。