4)触覚の継ぎ手、身体とつながる取っ手 細馬宏通との対話4
伊達 ウクレレの聞き取りも、第三者目線で入るからいいのかなっていうのは結構ありますね。家族同士ではわざわざ家の中の柱を話題にはしないし、その話題は意識にのぼってこない。
細馬 飲み屋で訪問看護をやっているひとと話したときに話題になったんですが、訪問すると行く先々でトイレや風呂の構造が違っているじゃないですか。するとその看護士のひとは、「この家はやけに便器まで遠いな」「このタオルかけはつかまれるな」「ここは床がタイルになっているから滑りやすい」とか、色々気づく。ところが、いつも使っているひとからすると、あまりにも当たり前の光景になっていて、そういう気づきが出てこない。第三者がいて、ここが面白いですね、とか、ここが飛び出ていますね、と言うことで、初めて意識化される。
あ、そうだ。昔、萩原葉子の本で似た話を読んだのを思い出した。萩原朔太郎が無意識的に階段を降りるとき手すりをヒュッとなでる場所があったのですが、娘の萩原葉子がそれを見てクスってなったんですって。この場合は娘が第三者ですね。
伊達 大人の世界と子どもの世界の目線の高さの違いとかも建物に表れてくるでしょうね。聞き取りをしていると、同じ状況はないけど、似ている状況がある。そのひとのなかの意外性というか。ひとによって「見てない度合い」が違うんです。
細馬 ウクレレができた時点で、記憶が固まるだけじゃなくて、そこから別の思い出しが始まっちゃう。記憶が更新される、というところが面白いところですよね。
伊達 過去の記憶を固めるだけであればウクレレにしなくてもいいんです。何かしら用途のあるものであればいい。建物のかたちを変えてまでつくる、っていうのは、記憶を更新してほしいからでもありますね。
細馬 なんだか、建物のごく一部をとってきて別の建築にする感じですね。
伊達 そうですね。感覚が転写された断片をもう一回集め直すわけです。
細馬 ウクレレを持ったときに、表のボディが1階で、ひっくり返すと側板が2階、持っているネックが手すりだったりするわけでしょう。建築が体と関われるかたちに変化している。普通だと体が建築のなかに入っていくけれど、ウクレレでは逆に体が建築を手に抱える。体と建築の関係が反転するわけですよね。
伊達 「自分の家がウクレレになる気持ちは、なってみんとわからんで」と言われたことありますね。実家の取り壊しなんて一生にそう何度もないけど、住んでいたものがひとが抱えられるサイズの物体になって、そのときにはまた別の空間がそのひとを包んでいる。ひとと建物が入れ子になっているのですが、その構造って面白いなと思いますね。
細馬 「触っている」っていうことが大きいんだと思う。建築の模型が発砲スチロールでできていたとして、それはポータブルであるけれど「触る」関係ではない。でも自分が触っていた手すりとかがネックになると、同じポータブルでも、この手すりを介して、内外が反転する感じがしますね。
僕らが触覚を頼りに違う世界にたどり着くのって、多分視覚的な世界とは違う論理なんですよ。かつての手すりが、いわばその建築を思い出すための「取っ手」になる。
伊達 触覚の継ぎ手、体とつながる取っ手。
細馬 僕らが何かに触るときは、誰かが触った痕を見てそこに触りに行くことが多いんですよね。なんにもないところにはいかない。「なんで触ったんだろう」って触る。それがかつての自分でもいいわけです。そういう意味では時間の「取っ手」でもある。空間だけじゃなくってね。
伊達さんの話を聞きながら、意識にひっかからないことって触覚的なんだなって思いました。痕跡は触覚が視覚化されたもので、それを見て意識していなかった触覚に気づく。ウクレレを持つっていうことも触覚的。
ウクレレというのは、ポータブルな楽器であることによって、見ているときですら触覚的な性質を持っているかもしれません。僕らはウクレレを見ると、工芸物としてのウクレレを鑑賞するだけでなく、実際に持ったときどうだろう、弾いたときどうだろうって想像をしているわけです。ウクレレの小ささや、持ちやすさがそういう触覚的な想像を誘発する。その意味でも、手に取れるとか、触れるとか、擦れるとか、そういうかたち、痕は重要なんだな。視覚的なんだけれど、すぐに触覚を思い出させるもの。ウクレレは、忘れていたものを触覚的に想起する方法なんだと思います。