7)伊達作品の持つ「距離感」 福永信との対話3
福永 文章というのは年齢を区切りますよね。小学3年生のくらいのときの話を書くとして、僕は小学3年生が読めるようには書けないです。児童文学っていうジャンルはあるけど、僕の場合は大人向けになっちゃうんですよ。そして、それでいいと思ってるのですが、ことばというのはつくづく融通が利かないと思いますね。児童文学は児童文学で、「大人は読まない」というようなルールをつくります。
伊達 それを楽しく読める年齢層を限定してしまう。展覧会も同じで、完全に大人のルールの空間ですからね。
福永 子ども向けなら子ども向けのようにアレンジされてしまいますね。最近の美術館でわりとロコツに見かける光景ですけど、大人が、子どものために展示を構成することがあります。子どもはあれ、ほんとは、「ダサいなあ」と思ってるんじゃないかなあ。子どもは大人に付き合ってあげてるんじゃないかな。そう考えると、そんなにまでして子どもに直接見せる必要もないようにも思うんです。
伊達 その場所で見せるべきかも微妙ですよね。
福永 子どものとき、美術と出会うことができなくても、かつての自分と一瞬だけ通話可能な感情を、伊達さんの作品から受け取ることができれば、それは子どもが見たのと同じかもしれない。
伊達 本当に敏感で、好奇心が旺盛なひとは、それで十分自分の価値観をつくっていくんだろうと思うけど、僕の場合は「これは自分だけの感覚じゃないかもな」っていう気持ちで展覧会をやっているところがある。ウクレレの展示を見にきたひとが「これ、うちにも同じような柱があるから、うちの柱を眺めたらいいか」って、そう思わせたら理想ですね。
福永 正直に告白すると、伊達さんの個展を最初に見たとき「こんなことをされてもなあ……」と思ったんですよね、生意気にも。ウクレレが壁から観客を取り囲んでいるのを見て戸惑ったんです。すごく親密な関係の象徴に見えて、観客の自分はそこから疎外されているように思ったんですよ。まだ若いころで自分の方がえらいと思ってますから、「もうこれはオレには関係ないな」と批判したつもりになってたんですね。でも、伊達さんの作品は無視しようとしても目の前に現れるんですよ(笑)。
伊達 別の意味で力技だな。
福永 どこに行っても伊達さんを見るから、だんだんわかってくるわけです。伊達さんは「親密さ」をつくってるんじゃないんだ、実はその逆で遠さの印をつくっているんだなと。見ている自分が好きか嫌いかは無関係で、だから、もともと誰も疎外されていないわけです。人間ってそういうものなんだって言っているように感じた。
伊達 それは本当にそうですね。距離感はテーマっていうほどではないけど、とても大事だと思う。適正な距離感。僕自身はそんなに密接にできないということもありますけどね。
福永 伊達さんの作品は伊達さんの内面から出てきていないですね。ウクレレというかたちに強引に押し込めているとも言える。それは結構不思議ですよね。感情の行き場というのが設定されてなくて、ずっと落ち着くことなく漂っているように思いますね。
伊達 「このウクレレは定型詩や俳句みたいなもの」と言ったひとがいて、なるほどなって思ったことはあります。確かに型にはめていく作業ですからね。一方で、全然当てはまらないと思っていたものが、あつらえたようにピタっと楽器のパーツになるときもある。それは縁。その偶然を引き寄せるのはできるだけ敏感にやりたいので、転用の仕方や活用の技術が問われると思う。
福永 その手つきが、暖かいんだか残酷なんだかよくわからないところなんです。眼差しのなかに、虫とヒヨコに対する眼差しが同居しているような気がする。
少年時代に持っていたその視点が、現在までそのままつながっているってすごいことだと思いますね。小説はどうしても、小説というフォーマットによって過去を再現するという人工性があるので、子どものころの感覚は僕にとっては地続きじゃないんですよ。小説にはそういう限界があるなと思っています。