3)地場の繊維産業と若手デザイナーをつなげるために
ファッションキュレーター / セコリ荘・宮浦晋哉1
宮浦晋哉さんは弱冠27歳ながら、産地とデザイナーをつなげる活動を地道におこなっている。ロンドンでファッションを学んでいたが、八王子の老舗テキスタイルメーカー「みやしん」の廃業を聞き、いてもたってもいられず帰国。以来、各地の繊維工場や職人を訪ね歩き、メディアに紹介する活動を続けてきた。今年になって東京月島の下町に古い民家を借りて「セコリ荘」をオープンしている。ここでは工場から集めてきた生地見本が展示され、職人とデザイナーのコラボレーション企画が実現したり、週末になると、ファッションを愛する若者たちが集まって熱い議論が交わされているという。
彼はなぜ地方に向かったのだろうか。その行動力を支えているのは、日本のものづくりを残したいという強い思いである。
宮浦さんは杉野服飾大学でテーラードを学んでいた。もともと工場や職人技が好きで、テーラードのアトリエでもバイトをしていたという。ところが、卒業が見えてきたころ、やりたいことを突き詰めて考えるうち、自分でものをつくるより、お客さんに伝えることや、社会的な関係をつくることがより重要ではないかと思うようになった。そこで彼は、発信する・伝えるという方向を追求するため、奨学金に応募して、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションのメディア・コミュニケーションコースに留学したのである。
ロンドンにいたころ、海外のデザイナーが日本の素材に注目していることを知り、彼の興味は日本の産地に向かっていく。その時ちょうど「みやしん」が廃業し、いろんな記事が出回った。「みやしん」とは、その優れたテキスタイルが日本のファッションブランドのクリエーションに大きな影響を与えてきた八王子の繊維メーカーである。「みやしん」の宮本英治は、若いデザイナーたちの服づくりを積極的にサポートする、伝説的な人物だ。
産地の窮状を知った宮浦は、ロンドンから戻り、現場を自分の足でまわってみようと決意。帰国してから、ずっと産地の取材を続けている。やがて、その成果を渋谷パルコのセレクトショップ「ぴゃるこ」で発表。「ぴゃるこ」はファッションディレクターの山口壮大の手がける、東京ファッションのカリスマ的なショップである。そこで宮浦さんは日本の産地を紹介するだけでなく、デザイナーと職人に組んでもらって商品を制作、新しい切り口からの職人とのコラボレーションを提案したのである。これをきっかけとなり、デザイナーからが声がかかったり、職人から相談を受けるようになっていく。
——最初は何も知らないで「みやしん」の宮本英治さんに話を伺いに行きました。宮本さんはみずから日本全国の産地を回って、八王子で伝説的な生地を何万点もつくってこられた方。最初に伺ったときに3時間くらいお話をしてもらいましたが、また聞きたいことがあってもう1回行ったんです。そうしたら宮本さんが繊維産地の資料を渡してくださって。それを手がかりに、行ける範囲で行きはじめました。また興味のある工場に直接交渉したり、産地の組合に問い合わせることもあります。今は各地の工場にお邪魔して、取材記事を書いています。原稿として雑誌、ウェブなどに発表しています。
宮浦さんは産地とデザイナーをつなげることにも力を入れていて、これからブランドを立ち上げる若手に素材や工場を紹介することも手がけている。若手の場合はマージンなしで生地の納品まで手伝うこともあるという。
産地について知り、それをファッションに興味のある若いひとたちに伝えていくうちに、ひとつの拠点となる場所の必要性を感じるようになり、月島の「セコリ荘」が生まれることになった。
——古民家を安く借りて、改装して使っているんです。つながりのできた産地の商品をストックして、デザイナーさんに現物を見てもらいながら話をする。デザイナーやパタンナーが来ていて、たまり場になっています。2013年9月にオープンして、週末(金・土・日)だけ開けています。
ここは若いひとや学校関係者が来て議論したり、工場で働いているひとが週末に来たりする場所になっています。素材のことを熱く話し合ったり、本当にものづくりが好きなひとたちです。ビジネスライクな方は来ないですね。ここにしかないものを見て、ここを入り口に産地に興味をもってくれればいい。
それから、産地ツアーもしています。学生さんや個人ブランド、会社の社長さんとか、アパレルメーカーの方などが、現場に行く機会がなかったということで、参加してくれます。たとえば、栃木の「真岡木綿会館」に行って、真岡で取れた木綿で機織り体験をして、真岡の歴史を聞いたり、藍染め体験をしたりするんです。
昨日訪れていた地域では、織機を直せる唯一の職人さんが入院したとか、機織さんも若くて60歳だとか、産地が成り立たなくなりつつあるのを見て、僕にできることはなんだろうと考えています。
今、地方の産地は深刻な状況にある。中国、ベトナムなどへ生産地が移り、国内の仕事量が減っている。また職人の高齢化が進み、若いひとたちもあまり参入してこない。高い技術を誇っていても職人は70代、そのひとがいなくなると誰もいなくなる、といった話はよく聞く。次の世代に引き継ぐことはあきらめ、自らの代で終わりと考えているひとも少なくない。
——産地で深刻なのは、経済的な問題と同様に現場のモチベーションと後継者不足だと思います。産地と商社という関係が長く続いてきたせいで、商社のチャンネルがないと産地は成立しない。そういう状況を変えようと、直接、小売りに行こうという工場さんも出てきています。
積極的なところは生き残っていくのではないでしょうか。繊維産業は助成金も多いので、それを活用しつつ自社ブランドをつくるとか、やれる余地はあると思います。兵庫の西脇のように、外から若手が入ってきて、産地内でコミュニティができたり、若返りが起きている産地もある。産地に若いひとが入ると、ファクトリーブランドをつくろうとか、新しい発想が生まれる。職人も年中工房内の作業だとつまらないのですが、週に1回、東京や大阪、京都に行くとか、製品をつくって売るとか、工場単位でも新しいシステムをつくるといい。新しい働き方をつくれば、職人も面白くなるのではないでしょうか。
素材をつくるだけだと、多品種小ロットを求める現在の市場では、ひとつの工場が潤う可能性は少ない。工場が直接売るとか、企画をしていくことになる。あるいは工場が大きなリスクを背負わなくても、素材をもとに外部企画と組むとか、うまく商品企画すればいいんじゃないでしょうか。
これまでも地場産業が政府から補助金をもらって、東京のデザイナーを呼び、デザインだけは洗練されたプロダクトを発表するようなプロジェクトはよく見られた。しかし、それが一過性の打ち上げ花火になっているケースも少なくない。東京依存、他人依存の体質から、産地自体が企画力をつけて、提案していくことが必要だ。しかし、ひとつのものづくりを追求してきた職人にマーケットを読めといっても難しい。マーケットの分析、商品の企画力ではなかなか東京の専門家に敵うものではない。
——でも尾道デニムプロジェクトとか、産地全体でブランディングをしてうまくいっているところもあります。愛知県に「大江洋服店」という工場を改装したショップがあるのですが、オリジナルのジーンズを求めて全国からお客さんが来るそうで、2年待ちになるほど人気があると聞きました。
お客さんも温度のないものに飽きてきているから、温もりとか、つくり手が見えるほうがいい。蔵前界隈のモノマチ(*本誌20、21号特集参照)が盛り上がっているのも、自分でオリジナルの手帖をつくれたり、そういう流れがきているからでしょう。
僕も「セコリ荘」で、Tシャツ、シャツ、バッグをお客さんが参加型で素材を選んで、パターンを調整して仕様も決められる、というサービスを始めました。お客さん参加型で、つくり手とつながっているこういう場所だからできるっていうことをやっていきたい。