6)注意を更新し合う、聴覚と視覚
梅田 ゴダールの『はなればなれに』(*1)という映画があって。途中のダンスシーンまぎわで、突然、劇伴や環境音がなくなって無音になるんですよね。そうすると、映画を観てるみんなの動きがぱっと止まるんですよ。お菓子を食べてたり、足を組みかえたりしてたのに、みんないきなり止まって。口に入れたものを噛めなくなったりとか、生唾を呑みこむ音が聞こえるとか。あれは僕のなかでは、子どものころに観たものとは別の意味で、もうひとつの映画原体験みたいな感じで。音がなくなることが逆説的に音を際立たせるということと、もうひとつ、まわりが知らないひとばかりだというのを自覚した。緊張感を強いられるというか、こんな暗闇で知らないひとたちに囲まれているのに、何で安心していられたんだろう、という気持ちになった。
細馬 映画館って最初に前の方に座っちゃうと、後ろに誰がいるのかもわからないんだけど、そこにいるのはもしかすると宇宙人だったかもしれない。
梅田 そうですよ。
細馬 ある音が鳴ったり、逆に音が不在であることで誰かの存在が急に際立つのって、梅田くんの好きな世界だよね。
梅田 鳴るはずじゃないところで音が鳴るとか、鳴るはずのところで鳴らないとか。情報として何かを得るときにも、音の方が正しい情報を得られるのではないかということに基づいているんですよね。少なくとも目は過信するじゃないですか。間違えることも多い。
細馬 音は、目が向けている注意に対して警告を鳴らすみたいなところがある。逆に目を向けることで聞こえてくる音もある。聴覚と視覚では、注意を更新し合ってるようなところがあるね。
梅田 聴覚と視覚と、根っこは一緒のところにありますよね。お互い影響し合ってできている。小さい音に耳を傾けてもらおうと思ったら、そこに目線を向けるというのはすごく重要で、注意深くそこを見れば、結果として音を拾わせることが可能だったりして。
細馬 梅田くんの作品では、その音が拾われるまでに、けっこう時間がかかることがあるよね。例えば『O才』の柿本邸の2階では、オペラ歌手だった関屋敏子の歌がかかってたわけだけど、音があることはしばらくそこにいないとわからない。その空間がどういう間取りかというのは1秒でわかる。でも、歌を認識するにはもっと時間がかかる。何か鳴ってるぞって気づいて、これはSP盤っぽい古い音だな、歌っているのは女性だな、じゃ歌っているのは何て曲だ、という風に「事」が明らかになっていく時間は1秒じゃないんだよね。ある程度の時間、そこの空間にいないと気がつかない。
梅田 そういう意味で時間がかかるのはその通りなんですけれど、音のほうが早い情報もあって。エコーロケーションとか、割と瞬間的に来ますよね。反響の質でもって、広さや深さや、素材はコンクリートだろうとか、ガラスだろうとか。少なくとも紙じゃないとか、木じゃないなということは一瞬でわかる。張りぼてだって、目でわからなくても、叩いたらすぐにわかる。専門の計測器があれば、間取りなんかも目で見るより先にわかってしまう。
細馬 うんうん。空間を音で認識する力って確かに速いね。僕は毎年、大学の学生さんにアイマスクをつけてもらって、大学のなかを歩いてまわってもらうという実験をするのだけれど、そうすると最初につかむのは反響なんだよね。これは果たしてオープンな場所か、クローズドな場所か、両側が迫っている場所か、それとも庭に出ちゃったのか。そういう空間の変化って音の反響ですぐわかるんだよね。
梅田 あと、限られた時間で、現象としての立ち上がりから、消えてなくなるまでのプロセスを表すのには、光よりも音のほうが扱いやすい。
学生の時に広い河原にドラムセットを組んで録音したことがあるんですけど、ドラマーがドカドカ叩いてても、ちょっと離れると聞こえなくなるんです。強く叩いてるのに、少し離れただけで、まったく聞こえなくなることにまず驚いて。そこにポケットバイクが走ってきて、ドラムと僕との間に停まったんですね。そしたらポコンポコン、と聞こえるようになって。もう1台来ると、ポコポコン、ポコポコンと、ディレイしながら聞こえるようになる。そのとき、ああそうか、音って目に見えるんだな、とわかった。
*1はなればなれに ジャン=リュック・ゴダール監督、アンナ・カリーナ主演のフランス映画。1964年制作。日本では長らく未公開映画であり、2001年の2月、制作以来37年ぶりに初めて劇場公開された。