3)理にかなったものの美しさ
靴職人・野島孝介さんの場合3
ここまで聞くと、まるで順風満帆のようだが、野島さんがつくる日本をテーマにした靴への周囲の反応は、それまであまりかんばしいものではなかった。
———浅草の靴業界の知り合い、友人、親族に見せた時の反応は、本当にことごとく悪かったですね。事実、代官山での個展ではまったく反応がありませんでした。革下駄なんて、十中八九「なんでわざわざ革で草履を……ビーサンがあるのにつくる必要ないでしょ」と言われましたね。
ところが、いざ西陣に工房を開いてみると、たちまち若いお客さんやマスコミの注目を集め、自分の進んでいる方向は間違っていないと確信したそうだ。
———当時すでに、若いひとの間で日本の伝統的なデザインを見直す動きも、かなり出始めていましたからね。「履くとフィットする」「意外といろんな服に合う」と、主に30代前後のひとが面白がって注文してくれました。「この靴に合う服を買いに行きます」と言われた時はうれしかったですね。靴はファッションの決め手ですから。
きっと西陣というまちのイメージも、日本をテーマにした靴を発信するのに後押しとなったに違いない。野島さんの仕事は順調に軌道に乗り、まもなくオーダーは1年待ちの状態に。スタッフも増え、いつまでも叔父の世話になるわけにもいかないと、2008年、すぐそばの大宮通寺之内下ルにあった空き町家に工房を移転した。その物件も、懇意にしていた近所のはんこ屋さんが大家さんを紹介してくれ、決まったものだった。
———地域のみなさんには、本当に親切にしていただきっぱなしで……。西陣に引っ越すと決めた時、周りからは「京都は近所付き合いが大変なんじゃない?」と心配されましたが、困るようなことは皆無でしたね。
吉靴房のチラシの裏には、西陣の立ち寄りスポットを紹介した地図が掲載されている。それも、少しでも地域に恩返しできれば、という野島さんの思いの表れだ。
さて、新しく借りた町家は、2階建ての1軒家。平屋を間借りしていた以前と異なる点はあっただろうか。
———2階にショールームを設けられたことが大きかったですね。広さもちょうどよく、築約100年の建物ごと見てもらえるという点がブランドイメージ的にも功を奏しました。1階の工房も、3人で作業するのに広すぎず狭すぎずで、ちょうどいい。今ここに収まっている必要最低限の道具でつくろうとするので、下手にものも買いませんしね(笑)。
ものをつくるのに、余計なことをしない、無駄を出さない。そのことを野島さんは、西陣や京都にいるさまざまなジャンルの職人さんたちに学ぶという。
———機織りや紙すき、染織など、ものづくりをされている方によく工場を見せてもらうんですが、上手いひとは決まって所作がきれいなんですよね。余計な動きが一切なく、最短の手数で一番いい状態をつくっている。町家ひとつとってもそうですが、その土地や、そこに暮らすひとの知識や経験から生まれた、理にかなったものには無駄がない。そういうものづくりに憧れます。
かくいう野島さんも、使う靴型は、足袋型・ラウンド型・オブリーク型の3種のみ。新作の靴のデザイン画を起こすタイミングは、シーズンでも流行でもなく、野島さんが「思いついた時」だ。そのデザイン画を、壁に張っては眺め、最初から最後まで製法が完全にイメージができた時のみ、サンプルづくりに取りかかる。
———それでも、これだけの数の靴ができるんです。実際に靴をつくる時にも、できるだけ修正はせず、一発勝負で行います。修正を繰り返すと、材料や時間の無駄になりますし、何よりも「手の味」みたいなものがだんだん消えていってしまう気がするんです。
そんな野島さんが、西陣に工房をオープンしてから新しく始めた試みがある。デザイン画の描き方から縫製まで、靴づくりのすべてを教える「履き物教室」だ。1階の工房を教室に、1クラス3人制で月3回開講している。生徒さんは、サラリーマンや主婦など、趣味で通う一般のひとがほとんどだ。
———靴のつくり方って、知られていないだけで、誰でもつくれるんです。そのことを知ってほしくて。自分で何かをつくると、目の前にあるものを自然と大事にするようになる。その意味で、ものをつくるという行為をもっと普及させたい、という思いがあるんです。
店のホームページには、これまで生徒さんがつくった数百点の靴の写真がアップされている。つくったひとの顔が透けて見えるような、楽しい表情の作品たち。一枚一枚、クリックするたび、思わず笑みがこぼれてしまう。
眺めているだけで、ふっとひとの心をなごませるもの。思わず守りたくなるもの。それが野島さんの言う「手の味」なのかもしれない。