2)解体・廃棄から文化財を守る 必死のレスキュー活動
卒業後もその思いは尽きず、岐阜県の飛騨市美術館で学芸員を務める傍らSNS上で発信をしつづけた。自身が企画する展示やワークショップなど学芸員活動のこぼれ話を明るくつづる一方で、佐渡の失われゆく文化や博物館にまつわるニュースを紹介するなど、地方の美術や文化財を取り巻く危機的状況に対し、アラートを鳴らし続けた。
それがある人の目に留まる。佐渡島中部にある15世紀創建の古刹・玉林寺住職を務める三浦良廣さんだ。発信力や企画力があり、かつ佐渡の文化に強い思い入れを持つ古玉さんをなくてはならない人材と捉えた三浦さんは、「佐渡に戻ってこないか」と声をかけたのだ。
———引き抜くような形で半ば強引に、古玉さんを呼び寄せました。私は以前、総本山にあたる京都の智積院で土田麦僊の《朝顔》の管理を担当しており、土田麦僊は佐渡出身なので《朝顔》を凱旋させる展覧会をしたいと、佐渡の博物館に企画を持ち込んだことがあるんです。しかし受け入れ体制がなく断られてしまい、危機感を抱きました。今、佐渡金山が世界遺産に選ばれて盛り上がっていますが、金山だけでは人はリピートしません。金山の恩恵でもあるのですが佐渡島には270を超える寺があり、島の70%の文化財が寺にあると言われるほど文化的な厚みがあります。しかしそれらを守り、伝える人がいない。文化を次世代につなぐ人が必要だと、古玉さんをスカウトしたんです。
佐渡にベースを置き文化財を保存再生するための足がかりになると感じた古玉さんは、Uターンの難しさを覚悟しながらも故郷に戻り、三浦住職のサポートを受けながら精力的に佐渡で活動を開始した。まずは島内の社寺にある、文化財の調査や記録からスタートした。その中で古玉さんは蔵が無惨に解体されていく状況を目の当たりにし、建物を救うことに意欲を燃やすことになる。古玉さんは振り返る。
———佐渡でも見捨てられがちで、解体が目立つのが建物です。特によく解体されているのが蔵。蔵の中には茶道具や漆器など、冠婚葬祭のための道具が一式揃っていることが多いのですが、博物館にも受け入れてもらえずに、解体に伴いすべて廃棄することになりがちです。蔵の中身も確認せずに、ブルドーザーで一気に壊してしまう。たとえ蔵に良質な材が使われていたとしても、再利用なんてされません。記録もされないで消滅していくのが田舎の現実なんだと。衝撃でしたね。
そこで古玉さんは、解体されゆく蔵から許可を得て建材や道具を運び出したり、三浦さんが住職を務める玉林寺の蔵を掃除して寺宝を整理したり、打ち捨てられつつある蔵の魅力をSNS上で訴えたり、文化財のレスキュー活動を繰り広げた。それは島外にも波及し、蔵の魅力に惹かれて島を訪れる人もあらわれた。尾道で空き家再生に取り組む蔵に詳しい建築士、渡邉義孝さんもその一人。そして旧若林邸と古玉さんを結びつけた人物である。
———渡邉さんが蔵めぐりをしたいと佐渡を訪ねてきたのでご案内している中で、“ピンク色の洋館”に出会ったんです。彼が「すごい建物だ」と言うので、なにかご存知ないか三浦住職に確認したところ玉林寺の檀家さんが所有されていることがわかり、見学できることになりました。内部を見た渡邉さんはますますテンションを上げて「一級品だ、登録有形文化財にも値する!」とおっしゃるので、そうなのか、と。
このときの古玉さんは渡邉さんに建物の魅力を訴えられ、やや受け身でその価値を認識した様子である。そんな古玉さんが、なぜこの建物の保存に勤しむことになったのか。それはさらなる事実が発覚したからだ。
———昔の洋館のことを知る人に話を聞くと、いろいろな事実がわかってきたんです。宮本常一が来訪したことや、鬼太鼓座が使っていたことが。
鬼太鼓座とは、佐渡を拠点に国際的に公演活動を展開する太鼓芸能集団「鼓童」の前身にあたる団体だ。その立ち上げ人である田耕(でん・たがやす)は宮本常一の指導を仰ぎながら、佐渡島に伝統文化と工芸を学ぶ「日本海大学」と「職人村」の設立を構想した。その資金獲得を目的に結成されたのが鬼太鼓座で、立ち上げ前の準備段階から計3年ほど、旧若林邸に寄宿していたという。古玉さんが社会人学生時代に掘り下げた宮本常一とは、縁の深い建物だった。