2)山の全体をとらえる
真夏の山は、午前でも陽ざしがつよく、じっとりと蒸し暑い。湿気が身体にまといつくようだ。しかし、その体感に反して、山は乾ききっているという。
歩き出してほどなく、垂直に切断され、むき出しになった地層の前で瀬戸さんが立ち止まる。
———本来はここに尾根があって、その上をゆるやかに水が流れていた。でも、道を作るために垂直にズバッと切られてしまい、地表を流れていた水も、地中に沁み込んだ水も迷子になってしまったんです。人工物(の擁壁)があると、水が横に進めず、その下に潜り込んでいくことになる。土の中で水が全然動かないわけじゃないんですけど、やはり水が滞る。そうすると、水が途中に沁み込みにくくなり、結果的に表面を流れる水が増え、流速が増し、土がどんどん削れていく。こういう場所は草も耐えられなくなって、裸地になる。雨が降って湿って、乾燥して、の繰り返しで砂漠ができあがっていきます。この状態になったら土がもろくなり、それまでその土を抱えてお互いに支え合ってきた木の重さを支えきれず、すべてがズルっと落ちてくるのも時間の問題です。
土って1cmできるのにどのぐらいかかると思いますか? 100年かかる。いま僕らが経験しているような集中豪雨でザっと流されたら、僕らも知りえないような100年分の時間の厚みがそこから消え去るんですよ。そこの土地の植物が芽生えて育って朽ちて、ということをずっと繰り返して、周りの生き物たちとやり取りをしながら生きてきたその時間の厚みなんですよね。それをどうやって維持していくかっていうのは考えないといけない。
「水の通り道」は、山の環境を再生する上で大きな課題だという。続いて、轟さんが造園の観点から話を始める。
———家の擁壁(ようへき)の場合、水抜き穴や石組みの隙間があります。コンクリートの擁壁だったら、縦に穴をあけて横穴にたどり着くようにしたり、場所によっては枝を挿したり、石やコンクリートガラを入れて、その間に落ち葉を入れたりして、水と空気が適度に動くようにしていく。要は土の中の水が集まってくる場所に凸凹をたくさん作って、水をゆっくり動かす。出口がないと、水は入らないですから。
この状態はもう、乾きすぎているんですね。庭の話でいうと、乾きすぎた植木鉢にはなかなか水が浸透しない。中の微生物が一回干上がってしまっていて、鉢と土の隙間をジャーッと流れていくので、水をあげてもあげてもなかなか土が元気にならない。それと同じようなことが起きているのかなって思っています。
瀬戸さんがドライバーで軽くつつくと、簡単にぽろぽろと土が落ちる。その脆さに山の危機的状況を垣間見る思いがする。
———崩れること自体は不自然なんじゃなくて、自然なんですよね。平坦になって安定するっていうのは自然の世界の理ですから。でもそうすると、今ある人間が作った境界を侵されてしまい、現代の僕らの生活と自然が共存するのがなかなか難しくなってしまう。今、僕らが問われているのは、これから自然とどうやって付き合っていきますか、ということ。みんなが木こりになって山から木を切ってきて料理しましょうっていう話ではなくて、自然にかかわり、感じ、考え、行動することを繰り返していくことで、今の生活をそれほど変えずとも、みなさんの生活実践のなかに自然が溶け込む在りかたができるはずなんです。(瀬戸さん)
土の乾きから、山全体の水の流れへ。山の危機的状況から、わたしたちの生活へ。目の前の土から、それぞれの話が展開していく。そして、西野さんも口を開いた。
———僕はこれから植物の話をいろいろしていこうと思うんですけど、一番大事なのは全体を捉えること、全体感だと思います。山全体を人の身体と思ってください。どこかが滞っていたらよくしてあげたいじゃないですか。
U字溝やコンクリートが絶対ダメとは思いません。必要に応じてU字溝を作るなど、人と自然が共存する上ではあると思うんです。ただそのなかで自然に戻せるところ、自然のポテンシャルを持っているところはそのままの状態でいようという話が出てくるかなと思うので、そういう意識とか目線で今回の話を捉えてもらえると、すんなり入ってきやすいんじゃないかなって。
いろんな話や知識がたくさん出てきて、それをピックアップしていると、僕らの頭はパンクしちゃう。全部重要だけど、何が大事なのかがわからなくなっちゃう。全体を捉えながら「そういう話もあるんだ」って消化していくといいかなと思います。
話をすぐにわかろうとするのではなく、自分のうちに留めおくこと。山の部分にとらわれすぎず、全体のなかで捉えようとすること。西野さんが言っているのは、観察の姿勢なのだと思う。そう受け取って、山道を進む。