1)常滑という地域を俯瞰する 海沿いの高所から
常滑市は伊勢湾に面している。風は強いが気候は温暖で、穏やかな丘陵地でもある。海に近い高層ホテルの屋上からは、ぐるりと360度、常滑のまちが見渡せる。平安時代末期には、この地で窯業が始まっていた。
「粘土が大量にあった。そして、傾斜の必要な堀り込み式「窖窯(あながま)」が作れる丘陵地である、海運に恵まれている、という三拍子が揃って常滑焼が完成したというところでしょうか」
土地の地理と常滑焼の成り立ちを、高橋さんが一通り説明してくれる。
常滑の代名詞は「常滑焼」。中世から焼きもので知られた地域であり、平安時代の甕壺に始まって、江戸後期からは文人趣味の急須がつくられる。明治以降は、土管やタイルなどの建築陶器やトイレなどの衛生陶器、タイル等が大量に生産され、陶業が盛んになった。そして、戦後には陶業を礎として、オブジェなどを制作する陶芸に向かう動きが起こる。時代ごとに主たるアイテムが移り変わり、千年近い歴史は続いてきた。
常滑地域をはじめ、知多半島には広範囲にわたって、焼きものに適した粘土の層が分布している。約650万年前から100万年前の間にかたちを変えながら、瀬戸・美濃を含む濃尾平野に拡がった「東海湖」と呼ばれる湖の底に堆積し、風化した土だ。
———鉄が多い土で焼くと赤褐色になるので、汎用性は低いんですよ。それと、有田や九谷のような磁器に比べると100〜200度ほど低い温度で焼くので、焼きものとしての丈夫さは向こうにはかなわない。でも、昔は焼くときに温度を上げて保つのが難しかったから、低い温度で焼き締まり、釉薬をかけなくても水が漏れにくい陶器がつくれるという意味では良質な土だったんです。そして、同じ性質の粘土が大量に埋蔵されていることが、中世では国内最大規模の大量生産にもつながったわけですね。
そこにどれだけ、どんな土があるかで、何をつくるかも違ってくる。常滑がさまざまな陶器を大量に生産できたのは、豊富な素材ありきなのだ。
海を眺めながら、高橋さんが話を続ける。「近代になるまでは、輸送には海路を活用していました。中世にはすでに、九州の博多や東北の平泉のような当時栄えていた地域にも、海路で運んでいたそうです」。さらに、まちのいたるところにある崖は“土を掘った跡”なのだという。「海沿いの土を掘って、焼きものにして、船で運んだんですね」。
あたり一帯の土を掘って、焼きものをつくり、海路で各地に届ける。風土に根ざした営みは、地の利も味方して、絶えることなく続いてきたのだった。