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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#99
2021.08

未来をまなざすデザイン

4 学びを響き合わせて、新しいうねりへ

1)STUDIO SHIROTANI初のスタッフ
デザイナー・川浪寛朗さん1

川浪寛朗さんはSTUDIO SHIROTANI最初のスタッフである。九州芸術工科大学(現在の九州大学芸術工学部)を2008年に卒業し、城谷さんの事務所に就職した。とはいえ、スタッフは川浪さんだけ。小浜にSTUDIO SHIROTANIをかまえた初期で、城谷さんは大学を出たばかりの若者とふたりで仕事を始めたのだった。
東京などの都市部ならまだしも、小浜は小さなまちだ。デザインの仕事の需要がさほどあるわけでもない。ましてや、2008年ごろは今のように地域で若い世代が働くことはまったく一般的ではなかった。
そのきっかけは、城谷さんにはよくあることだが、偶然の出会いからだった。

川浪寛朗さん

川浪寛朗さん。オンラインで話を伺った

———九州芸術工科大学の池田美奈子先生が、小浜に気になる人がいるから会いに行く、と。面白そうだからついていったんですが、小浜に着いて初めて会った城谷さんは、今思うといつもの感じで。海辺の事務所を案内して、温泉に入って美味しいものを食べさせてくれる。絶対にここは外せないっていうところを見せてくれて、城谷さんがつくったものや、小浜のいいものにふれられたんです。
それがちょうど、卒業してどうしようかというタイミングと重なっていて。大学院に進学する人も多かったので、お金を払って大学院で勉強するなら、多少なりともお金をもらいながら2年ぐらい勉強する気持ちだったら面白いんじゃないかな、と思った。それで、「城谷さんのところで働けますかね?」って話をして、卒業してから城谷さんのところで働き始めたんですね。

新卒とはいえ、川浪さんは大学在学中に彼なりの経験は積んでいた。交換留学生としてミラノに留学し、そののち、東アジアを放浪する半年間の旅にも出た。どちらか片方であれば、特に珍しいことでもないが、かけ離れたふたつの世界に身を置き、デザインを考えたという話は聞いたことがない。
それぞれ、どんな動機で始めて、どのような学びがあったのだろうか。

———ミラノサローネの学生や若者向けのブース「サローネサテリテ」に出品したことをきっかけに、交換留学の制度があったので、ミラノ工科大学で学ぶことにしたんです。ミラノ・デザインの華やかさみたいなものに憧れがあったのだと思います。
当時はイタリアのデザインは自由で楽しくて、ポストモダンデザインのイメージがありました。「Alessi」みたいな感じですね。それが学校に行ってみると、けっこうカチッとした授業で。もともと建築学科の系統からイタリアのデザインは始まっているのもあると思うんですけど、たとえば照明をデザインするという卒業制作的な授業をとった時も、近代の照明デザイン史をまとめるところから始めました。図書館にこもってチームでリサーチするんです。過去にどんなデザイナーがどんなデザインをしたか、それは点光源なのか面光源なのかとか、分類や分析をしていきました。そういうやり方もあると勉強になった一方で、日本では当時深澤直人さんや原研哉さんが活躍されていて、新しいデザインのムーブメントのように盛り上がっていた。それに比べるとミラノ工科大学での授業は自由度は低くて、学生も過去の作品のコピーのようなものをデザインしていたりして、当時はあまり面白くないと思ったんですよね。
また、デザインビジネスにも違和感がありました。ミラノサローネもそうですが、高級家具のような一部のお金持ちのための商品が毎年のようにどんどん新しく出てくる。スタイリッシュで格好よくて、おしゃれな音楽がかかっていて、という感じにお腹いっぱいになってしまって。1年のプログラムを半年で切り上げることにしたんです。

残りの半年をどう過ごすか考えて、川浪さんはイタリア留学とはかけ離れた選択をする。旅に出て、東アジアを放浪すること。デザインとはまったくかかわりのないように思えるが、川浪さんにはイタリアで食傷したからこそ、見たいものがあった。

———逆にできるだけデザインのないところに行きたかったんです。タイから入り、ラオス、カンボジア、バングラディシュ、インド、パキスタン、中国……と、できるだけ陸路で、国境をまたぎながら移動しました。グラデーショナルに文化が変わっていくのをゆっくり見ながら、その土地に住む人々の生活や使われている道具、その奥にある暮らしの豊かさのようなものが見たかった。たくさんお金を払えば得られるのではない何か、というか。普通のホテルでは満足できず、バイクタクシーのドライバーのおじさんを口説いて、電気もガスもトイレもない、バナナの皮でできた高床式の民家に泊めてもらったりしていました。
あまりにもいろんなものを見てしまったので、帰ってきてから普通に就職するという考えかたになかなかなれなくて。東京に出てメーカーに勤めるのが一般的なコースなのですが、そんな狭い世界でいいのか、というくらい広がってしまった。もっというと、デザインなんて要らないんじゃないかとさえ思ったりして。そんなふうに悩んでいる時に城谷さんに出会ったんです。

デザイナーとしての経験はなかったが、デザインとは何か、西欧とアジアにおけるデザインと生活のかかわりかたを目の当たりにして、川浪さんは実感をもとに深く思考するようになっていた。城谷さんにとって、育て甲斐のある人材だったのではないだろうか。

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小浜の美しい夕暮れ。STUDIO SHIROTANI設立当初は海辺に事務所を構えていたので、毎日こんな景色が眺められた。城谷さんと川浪さん、そして長崎県大村市にあるカフェWARANAYAの霜川剛さん、ゆかりさん夫妻。霜川さんの自宅は城谷さんが設計した(写真提供:川浪寛朗)