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アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

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#329

コロナと里山
― 下村 泰史

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「空を描く」の原稿には、いつも悩まされる。他の先生方の文章を読むと、よくこんな題材を見つけてくるものだと驚かされる。

もともと引き出しがあまり多くないというのもあるが、今は何を考えても話が新型コロナウイルス感染症のことや、それへの政府の対応だとか、もろもろの大学がどういう工夫をしているか、といったようなことの方に行ってしまう。そういったことについて感想めいたことは書けるかもしれないけれど、まああまり気の利いたことは書けそうにない。

だからといって、コロナのことと全く関係ないことを書くのも、なんだか変な心地がする。どうも心のおきどころがなく感じられる。

この文章を書く前に、一度かなりの分量のものを書いたのだった。しかし書くほどに何を書いているのかわからなくなって一旦筆を置いたのだ。

それには何を書いていたのかというと、私がこの20年以上関わってきた環境保全系の市民活動を振り返るというものであった。これが面白くなるはずがない。

とりあえず、かいつまんで紹介しよう。そういう川や里山の活動の中には、大きく二つの気分があったように思う。一つは、根拠と客観性に基づくコミュニケーションを旨とする近代市民社会的なもの。もう一つは、風土性や地元の人たちの自然との生き方を大切にしたがる、ある意味ムラ的なものである。私は、後者よりの人たちとつるむことが多かった。こっちのほうが飲みながら話していて面白かったからだ。

前者のものの見方を象徴する本として、重松敏則『市民による里山の保全・管理』(信山社出版、1991)といったものがあった。レクリエーションとしての森林管理を市民ボランティアで!、という明るい本であった。一方、後者を標榜する人たちが好んで読んだのが、哲学者内山節の『自然と労働 哲学の旅から』(農山漁村文化協会、1986)や『森にかよう道 知床から屋久島まで』(新潮選書、1994)といったものであった。これらは今読んでも示唆に富むものである。

内山は非常に注意深くではあるが、今世界を仕切っている合理主義が西欧ローカルなものに過ぎないとし、一方村での自然との暮らしから新たなローカルな思想を作ろうとする。西洋的な「自由」に、「自在」を対置させようとさえする。ここでは、日本人の自然との親しさ、その自然とともにあるさまの麗しさなどが強調される。こうした地域文化、地域社会と自然の関わりを重視する見方は、嘉田由紀子らの「生活環境主義」とも相通ずるものだ。

思い切り端折ると、内山の森の思想は、客観性、エビデンス至上主義、グローバリズム、西洋合理主義といったものを相対化し、日本のローカルで伝統的な共同体的のありかたに、人間の生き方と環境との共生のキーを見出そうというものであった。それはなんでも数値化し、管理し、競争させ、という現代のぎすぎすした都市社会への批判を含むものであった。そういうカウンター性が、市民活動をやっているような人にも響くところがあったのだと思う。この時期、こうした里山的共同体主義というか日本的ローカル環境主義とでもいうべき考え方は、リベラルな人々と親和的だったように記憶している。

というのが、20年前の話である。それからボランティアやNPOのブームがあり、市民参加の法制度が作られ、「新しい公共」が模索された。市民運動家出身の政治家が首相になった時期もあった。協働と合意形成が主調となり、それなりに理路が大切にされた時代であった。

それが今は状況が一変してしまった。筋道だった議論は敬遠され笑われるようになり、合意形成は忖度によって演じられるようになって、協働は動員になっていった。市民的な公共性は踏みにじられて、その多様さを形作る少数派の人々は怒号に晒されている。この背景には、日本人の同質性を強調する他者排除の考え方があるように思う。私はこれを非難するが、同時に複雑な感情も持っている。全く別のものになってしまっているが、かつて親しんだ里山的共同体主義の面影を見るからである。幼馴染が凶悪犯になって現れたような感じがするのだ。

この乱暴な排外主義に飲み込まれない形で、ローカルな自然文化誌を語るにはどのような言葉が必要なのか、2019年にはそんなことを考えていた。

そんなことを考えていた矢先の、今年に入ってのコロナ禍である。ここまで書いてきた議論もまた、ナンセンスになってしまうのかもしれない。ソーシャル・ディスタンスの確保の中で、公共性も共同性も大きく変質していきそうだからである。人々の移動が抑えられることで、地域固有性は復権するのかもしれない。一方で地元的共同体での人同士の接触は抑えられていくだろう。市民同士の公共的なコミュニケーションはネットワークによるものが主体となっていき、距離の遠近は意味を持たなくなるだろう。同時にモニタ上で共有できないものは、コミュニケーションからこぼれ落ちていくのかもしれない。

どうなるか全くわからないけれど、自然との付き合い方が新しいものに変わっていくのは確かだと思う。それが親しく血の通ったものとなるように構想していくのも、わたしたちの大切な仕事になるのだと思う。