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アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

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#315

既視感と風景
― 上村博

空を描く315

(2019.04.7公開)

日本中、どこでも似たような風景になった。という嘆きは、とりわけ高度成長期以降、各地方都市に近代的なビルが建ち並び、高速道路が全国を縦横に走ってからのことだろう。それは21世紀に入ってからもやむことはない。ファストフードやファストファッション、コンビニエンスストア、ドラッグストアのチェーン店は日本全国いたるところで同じように既視感のある風景を作り出している。しかし、最初に断っておくと、この文章は風景の紋切り型を非難するものでも、慨嘆するものでもない。むしろ風景には紋切り型が必要だ、という話である。

 

「風景」は地形や地勢とはちょっと違う。視覚的に捉えられた空間というだけでもない。風景は、ただ地形や空間の拡がりを認知するのではなく、それらを味わう、楽しむ、思いやるといった、多分に情緒的なものが関わっている。その空間が視覚的に捉えられるとしても、それはその空間のなかで何らかの行為をするために必要な情報を得ようとしているのではない。その空間の前に立ち止まり、空間そのものものを見つめているのである。この、「中に」と「前に」の違いは大きい。勿論、人間はどこであれ空間の中に生きている。当然、そこから逃れることはできない。しかし、それにもかかわらず、人間は空間を生きるだけでなく、空間を眺めることができる。ひたすらに空間の中で生きることを宙づりにして、あたかも自分が空間の外にいるかのように、空間を見つめたり、あるいはさらに空間を思い描くこともできる。空間の中に生きる自分と、空間を前に眺める自分とを行き来するのである。

 

ちょっと話が遠回りしてしまうが、これは心と体の問題でもある。人間の心と体とは、けっこう融通が利く間柄である。始終目の前のことだけに専心するのではなく、ときどきうっかり自分自身の所在を忘れてどこかにふらふらと遊離してしまうのである。昭和の初め頃の版画家、谷中安規は、気を付けていないと、ふらりとどこかへ消えてしまうので「風船画伯」という綽名があったそうだ。しかし糸の切れた風船画伯ならずとも、普通に暮らしている我々も、自分の身体の在処を忘れ、心がそこかしこに飛び去ってゆくのは良くあることである。それは「想像力」のはたらきでもあるし、「記憶」のはたらきでもある。心が自分の今いる身体からすっかり離れ去ってしまい、もはや自分の体に戻れなくなってしまうと困ったことだが、そんな事例もときどきはある。
十八〜十九世紀のヨーロッパでは、夢遊病は流行の話題であった。ピュイゼギュール侯爵(アマン・ジャック・ド・シャストネ)は病人を人工的に(催眠術で)夢遊病の状態にして自分自身を診断させるという実験を行った。患者は眠ったまま自分自身を観察し、病の原因を述べることができたという。それは一種の身体離脱であり、自分自身を外側から犀利に見つめる視点を手に入れた、ということもできるだろう。夢遊病だからといって夢うつつでぼんやりしているわけではない。夢の中のほうがよく見えるものもある。ディドロとダランベールの『百科全書』にも、夢遊病の状態で文章の校正をしたり、高所を危なげなく歩いたりする例が報告されている。夢遊病は、半ば眠っている状態というよりも、身体と身体の意識とのズレである。十九世紀の作曲家ヴィンチェンツォ・ベッリーニのオペラ『夢遊病の女』(1831年)でもヒロインが夜な夜な出歩いて幽霊騒ぎを起こすが、それはまた十九世紀末のヨハンナ・シュピーリの小説の主人公で、アルプスの山からフランクフルトに出てきた田舎娘ハイジ(『ハイディの修業と遍歴時代』1880年)の場合も同様である。自分の心が見ている場所が、自分の身体のありかに碇を下ろしていないのである。これは疾患ではあるが、しかし同様の事態は、ある程度コントロールされつつ、日常的に我々が経験していることでもある。またこうした能力があるからこそ、人間が現在に縛り付けられずに思考を巡らすことができるのではないか。

 

話が糸の切れた風船のように飛んでしまった。要は、我々はときどき自分の住まう空間の外に立つことができるし、否応無しにそうしてしまうこともある、というだけの話である。風景に戻ろう。風景は生きられる空間というよりも、眺められる空間である。その前にたたずむことが必要である。そのような、眺める態度を促されるきっかけはいくつかある。
ひとつには、やはり息を呑むような絶景があろう。雲を突く山岳、すがすがしい高台の見晴らしなどは、人をその前で立ち止まらせる。咲き誇る花や緑滴る若葉など、輝かしい自然の美しさもそうである。それらを前にして、我々はしばらく自分の身体(をどう使うのか)を忘れてしまう。文字通り、そうした自然は「見事(みごと)」なのであり、「為事(しごと)」の対象ではない。
しかし、そうした見事な自然だけが風景になるわけでもない。平凡で、ありきたりの風景だってある。風光明媚をうたう観光地でも、実は案外そうしたありきたりの風景しかないことは多い。「名所に見所無し」という古いことわざもある。観光地の風景の定番、渓流、瀑布、絶壁などには、たしかに壮大な自然の驚異もあろうが、そればかりというわけでもなく、むしろ紋切り型の風景も多い。それでも、その見所のない、何の変哲もない風景を見てしまう。それこそ観光地あるいは名所の持つ魔法である。名所と言うだけで、すでに風景を探し、風景を眺める態勢に入っているのである。これはいわば美術館の効果にも近い。その辺にあれば、きわめてありきたりのガラクタでも、美術館やギャラリーの展示室に設置されるや、それは眺められる対象となる。風景も同様で、文学的な伝統が名所として名指している、あるいは観光ガイドにリストアップされているだけで、同様の効果を手に入れる。いわば「さあ、ご覧なさい」と額縁に入れて提供される風景である。こうした場合、紋切り型であるほうが却って好都合である。期待を裏切らないからだ。そして実は先に挙げた息を呑む絶景だって、案外似たような紋切り型の側面はある。絶景を見るぞという構えがあってこそ、その期待に応えるものが出現した際に感嘆しやすい。何とも得体の知れないもの、形容しがたいものを前にしたら、賞讃するより、身を守ってしまう。
風景の紋切り型には、うら淋しい、薄汚れた風景もある。また恐ろしい風景すら、紋切り型になることで眺めやすいものに転換される。文学や映画、絵画やゲームが風景の類型を再生産しつづけてくれるおかげで、廃墟だろうがディストピアだろうが審美的に眺められる風景として立ち現れる。
伝統ある街並み、南国風のビーチ、牧歌的な田園など、紋切り型は風景を愛でる心にやさしい。さて、そうすると、最初に記したファストフードやコンビニ、高速道路やビルの作る街はどうだろう。それらはいわゆる名所のリストには入っていない。しかしおそらく風景として眺められることは容易ではないか。ひとたびそれが風景としてカテゴライズされれば良いだけだ。かつて稼働していた町の工場や昔通った学校も、通勤通学の対象であることが忘れられた途端、風景に化ける。海外や田舎から街中に帰ってきて、久しぶりに見る高速道路を眺めて落ち着いた、という経験をしたひともいるだろう。

 

デジャ=ヴュという言葉がある。あるものを見たことが無いはずなのに、それがデジャ「既に」=ヴュ「視られた」ものと思えてしまう状態だ。目の前の風景が、どこか親しいような、しかしそれでいて同定しがたい不安な感じを与えている。一種の精神疾患だろうが、風景を見るという行為は、案外このデジャ=ヴュに近いのではないか。デジャ=ヴュでのように、我々は風景を前にして固まってしまい、前に進まず、一瞬の過去として空間を見つめているのではないだろうか。風景の紋切り型は、生きられる空間を凍結して時間をストップさせる装置なのかもしれない。