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アネモメトリ -風の手帖-

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#314

気分
― 川合健太

気分

(2019.03.31公開)

小学生のある日、3つ上のてっちゃんが、近くの山から大きな水晶を採ってきた。大人のこぶし大ほどの大きさで、全体的にはすこし曇ったような半透明の塊。ところどころ見事に結晶化した透明の部分もあって、鈍い光の中に鋭い光を蓄えた、えも言われぬ塊。水晶を見せてもらった日の夜はよく眠れないほど興奮していた。てっちゃんが近くの山からあんな美しい塊を持ち帰ってきた。それはもう、大事件だった。翌日には友人二人にその出来事を話し、週末に水晶採りに行く約束をした。近くの山は滋賀県南部にある太神山といって、その昔、平城京建立の際に多くの樹木が伐り出されて禿げ山となり、地表がむき出しになっていて、雨が降ると、花崗岩の岩肌があらわれて、鉱物がたくさん顔を出す。

何度か通ううちに、太神山は日本で最大のトパーズの原石が採取された山だと知って拍車がかかり、動機は不純だけど、文字通り一攫千金を狙って、毎週末のように水晶採りに出かけるようになった。水晶採りといっても岩を砕いたり、大掛かりに採掘するわけでもなく、僕らだけが知る(と思っている)秘密の入り口から山に入って、小さな川沿いを遡りながら、そのほとりで水晶を探すだけ。川砂の中をつぶさに見ていくと、透明の粒が転がっている。おっ!と思って川の中からすくい出す。でも、水に入っているときは透明に見えても、すくい出すとすぐに透明感は失われてよくある乳白色の粒に戻ってしまい、また川に返す。そんな地味な作業を繰り返して日が暮れる。それが愉しい。水晶の選別基準は明快で、ひとつは透明感があるか。もうひとつは妥当な大きさであるか。こども心にも水晶採りには何人かで行くのが良いと思っていて、それは、誰かが水晶を見つけたときの羨望と、自分が見つけられなかった悔しさを感じられるから。もちろんひとつも採れない日がほとんどで、その満たされない気持ちがまた次の動機につながっていった。水晶採りは、最初に声をかけた友人二人と中学生まで続けて、そのうちの一人がぐれ出すと、やがて行かなくなった。でも、その思い出は、石拾いに姿を変えて今も続いている。

昨年のちょうど今頃、チェコに俳句遠征に出かけた。遠征の合間、プラハ近郊、スタラー・フチの森の中にあるカレル・チャペックの家に連れていってもらった。その道中、山間部を車で走っていたら、急に視界がひらけて大きな橋に差し掛かかり、眼下にはたっぷりと黒々とした水を湛えた河(というよりも最初は湖に見えた)が広がった。直感的にここは石拾いができると思って、後悔先に立たず、30分だけの約束で引き返してもらい、ほどなくして、河のほとりに下りる道を見つけた。しんとした森の中、目の前には左か右かどちらに水が流れているのかわからないくらいに大きな河。橋の上から黒く見えた水は近くで見ると透き通っていて、川底には、ゴマのような黒い点をいくつもつけた、仄かに金色に輝く、見たこともない石が転がっていた。石の選別基準も水晶と同じく明快だが、それを言葉にすると、いかんせん「気分」としか言い表せない。いつか適切な言葉が湧いてきそうな気もするが、それはまた次の機会にとっておくとして、今はただ自分の気分にしたがって、石拾いに夢中になっている。

春の河ついばむやうに石拾ふ 牛蒡