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#301

マルゲリータ・サルファッティとファシズムの時代
― 池野絢子

マルゲリータ・サルファッティとファシズムの時代(1)

(2019.01.06公開)

恐らく一般的にはほとんど知られていないだろうが、ファシズムの時代を生きたイタリアの女性批評家に、マルゲリータ・サルファッティ(1880-1961)という人物がいる。彼女の名前は、なによりも、ベニート・ムッソリーニと固く結びついている。1925年に出版されベストセラーになったムッソリーニの評伝『ベニート・ムッソリーニの生涯』(この伝記はまず英語で出版され、翌年『Dux(ラテン語で「統帥」の意味)』のタイトルでイタリア語に、さらには十数ヶ国語に翻訳された)の著者であり、愛人の一人でもあったと言われている。しかしサルファッティは同時に批評家として、当時のイタリアの芸術界において重要な役割を果たした人物でもあった。
以前から個人的に、サルファッティは、とても興味を惹かれる人物だった。確かに彼女は体制に与した人間という印象が強いが、同時に彼女は、ファシスト政権下の男性中心主義の世界で活躍した女性であり、三人の子どもの母親であり、そしてユダヤ人だった。とくにユダヤ人であったことは、彼女の波乱に満ちた生涯に、ひときわ暗い影を落としている。

そのサルファッティをテーマにした大規模な展覧会が、昨年の9月からミラノの20世紀美術館とトレント・ロヴェレート近現代美術館の共同で行われている。彼女の数奇な運命は人々の関心を惹き、これまでにもいくつかの伝記的な著作が出版されてきた。しかし、こと彼女が芸術の世界で成したことについては、十分な検討がなされてこなかった。この展覧会は、その経緯を踏まえた上で「現代的な視点で、マルゲリータ・サルファッティを語ること」を目指した試みである。二カ所の会場を回り、さまざまな発見があってとても興味深かったのだが、とはいえ、まずは彼女が何者であるかを説明しておかねばならないだろう。
ヴェネツィアの富裕なユダヤ系の家庭に生まれたサルファッティ、旧姓マルゲリータ・グラッシーニは、同じくユダヤ人で弁護士だったチェーザレ・サルファッティと結婚し、ミラノに移り住む。若くして芸術と政治に情熱を持っていた彼女は、社会主義の活動や女性運動に関わり、毎週水曜日の夜には自邸でサロンを開いていた。このサロンには、作家のガブリエーレ・ダヌンツィオをはじめ各界の著名人や、サルファッティが支援したウンベルト・ボッチョーニら若い未来派の芸術家たちが招かれた。こうした交流から美術批評の才能を開花させていったサルファッティがムッソリーニと出会うのは1912年、彼がイタリア社会党の機関紙『アヴァンティ!』の編集長に任命されたことがきっかけである。サルファッティはその後ムッソリーニに接近していくことになるが、この過程でとりわけ重要なのは「ノヴェチェント」という名の芸術家グループを組織したことであろう。
「ノヴェチェント」とは、イタリア語で「20世紀」を意味する。サルファッティの言葉によれば、かつてルネサンスの時代にイタリアが思想的にも芸術の世界でも圧倒的な輝きを放ったように、20世紀にあって、イタリアの芸術的優位性が再び認められることを期した名称である。その理念からして、このグループの結成に政治的な意図があったのは当然だったと言えよう。グループは1922年、ちょうどローマ進軍によってファシスト党が政権を樹立したその年に、7人の芸術家によって結成され、翌年、第一回目の公式展覧会がミラノのペーザロ画廊で開かれた。その開幕初日には、サルファッティの計らいで、ムッソリーニが臨席し演説を行った。イタリアのファシスト政権は、最終的にはひとつの芸術様式を公的な芸術とみなすことはなかったが、初期においては、ノヴェチェントこそが最も「ファシズムの芸術」に近かったのであり、サルファッティはそうなることを願ったのである。
では、ノヴェチェントとはどのような芸術だったのか。サルファッティは1925年にその目指すところを「フォルムの明晰さと着想の慎ましさ。けっして妄想に陥ることも、奇抜になることもなく、いかなる不明瞭さも気まぐれなところもないこと」(Sarfatti, Margherita, Segni, colori, luci. Note d’arte, 1925)という言葉で表現している。すなわち、形態においてわかりやすく、主題が難解に過ぎないことが重要だと言うのだ。たとえば、彼女の発掘したノヴェチェントの代表画家であり、後に公共芸術を多く手がけることになるマリオ・シローニの《家族(羊飼いの家族)》(1927年)を見てみよう。

マルゲリータ・サルファッティとファシズムの時代(2)
画面には三人の人物が描かれている。右手に赤ん坊とその母親とおぼしき女性、左手には杖を携えた男性が、母子の方に視線を向けてたたずんでいる。舞台は、乾いた土地で、遠景の山並みは土色に塗られており、曲線の重なりは、画面両脇の石の構造物と対照的である。この作品は、イエス、マリア、ヨセフの聖家族による「エジプト逃避」の場面を念頭においたものであることがたやすく想像されるにもかかわらず、それを証立てるものはなく、時間の経過から切り離されたような不思議な静けさに満ちている。所々にのぞく地面の赤茶色や、画面中央部分の、描きかけのような不定形な形態は、荒いタッチと相まってどこかしら暴力性を感じさせる。
この作品は宗教主題を思わせながらも、特定されない理念的な「家族」の表象であるという点で、サルファッティの言う特徴を備えていると言えるだろう。国家の芸術であるノヴェチェントは、鑑賞者にとって容易に理解されるものでなければならない。ただし、主題のわかりやすさだけが重要なのではない。重要なのは、過去の古典的なフォルムを取り戻し、それに現代性を与えることなのである。彼女はこのような目指すべき芸術の特徴を「近代的古典主義」という言葉で表現した。
近代的、かつ古典的であること。サルファッティは、この「古典的」という形容詞を好んで多用した。ノヴェチェントはその意味で、第一次世界大戦前後のヨーロッパ美術に広く生じた「秩序への回帰」の大きな流れに連動していたと言える(「秩序への回帰」については、こちらのエッセイを参照のこと)。サルファティはさらに、1926年以降ノヴェチェントの展覧会を国外で盛んに開催し、イタリアの同時代絵画が国際的認知を獲得することに貢献した。それはもちろん、ファシスト政権の文化政策の一環でもあったわけだが、サルファッティの意図と政権の意図は次第に食い違いを生んでいく。その複雑な経緯については、次の機会に譲ろう。
以上のように、サルファッティは、1920年代の文化政策において中心的な役割を果たしながら、やがてムッソリーニから遠ざけられ、イタリアがドイツのナチス政権との連携を強めると、権力の中枢から追いやられていった。そして1938年、イタリアに人種法(ユダヤ人排斥に関する法律)が施行されるにおよび、ユダヤ人だった彼女は祖国を捨てることを強いられるのである。サルファッティは、はじめパリ、ウルグアイと移動し、最終的にはアルゼンチンへと亡命する。彼女は戦後、1947年に再び祖国の地を踏むことになるが、そこで待っていたのは、ファシスト政権に関与した人間に対する冷たい扱いであり、シローニらわずかな旧知の友人たちを例外として、かつて彼女を取り巻いていた人々が戻ってくることはなかったという。

誤解のないように書いておくと、私はサルファッティの批評が正しかったとか、彼女の言説にアクチュアリティがあるとか、そういう風には思わない。ただ、それでも惹かれるのは、彼女の言葉と存在に、なにか時代の熱のようなものを感じるからだろう。敢えて言うならサルファッティには、「歴史の敗者」という言葉が相応しいように思う。理由は二つある。第一に、彼女はファシスト政権下ではユダヤ人として、さらに戦後はファシストとして、二重に追放されてきたこと。そして第二に、彼女の提起した芸術のあり方、すなわち、簡潔で明晰なフォルムと万人にわかりやすい具象絵画が、けっして近代美術の主流にはならなかったことである。しかし、歴史には勝者だけが存在するわけではないということもまた、事実である。

主な参考文献:
Sarfatti, Margherita, Segni, colori, luci. Note d’arte, 1925 in Barocchi, Paola, ed., Storia moderna dell’arte in Italia, Vol. terzo, I, Torino: Einaudi, 1990, pp. 13-15.
Da Boccioni a Sironi: Il mondo di Margherita Sarfatti, Pontiggia, catalogo della mostra, Elena, a cura di, Milano: Skira, 1997.
Margherita Sarfatti, catalogo della mostra, Milano: Electa, 2018.

図版キャプション:
図1:第17回ヴェネツィア・ビエンナーレの様子、中央がマルゲリータ・サルファッティ、1930年。
図2:マリオ・シローニ《羊飼いの家族》1924年、カンヴァスに油彩、73×97cm、ローマ市立近代絵画館