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アネモメトリ -風の手帖-

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#302

夜と古典
― 君野隆久

「夜と古典」写真

(2019.01.13公開)

昼夜逆転の生活は歓迎されない。ふつうそれは「生活の乱れ」と理解され、矯正の、あるいは治療の対象となる。健康への悪影響は少しネットを検索すればあれこれ出てくる。

大学に来れなくなる学生の多くにも、この昼夜逆転が見られる。「すみません、最近昼夜逆転してしまって……単位ほしいです」「うむ。まあ規則正しい生活をしてまず授業に出るようにしてください」。しかし指導している当の教員が昼夜逆転しているとなると、あまり大きなことはいえない。

私は赤子のときから夜寝ない子だったそうだ(母親がそう言っていた)。いまでも、夜、真っ暗闇の中で入眠するのが苦手である。チュンチュンいう可憐な雀の声を聞きながら払暁のうすあかるさの中で入眠するのがいちばん安心する。

西行仮託の説話集『撰集抄』にこんな話が載っている(巻二の五)。出家して東山の奥に庵を建ててひとり棲む男がいた。その男が、夜になると里に出てきて、声高らかに念仏して遊行する。なんでわざわざ夜に念仏するのか。苦しくて身の置きどころがないのか。それにしても夜寝なかったらしんどいだろう、と人がたずねると、その聖はこんな意味のことを言う。「昼間に市中を歩くと、女を見ては昔なじんでいた女のことを思い出し、子供を見ては自分がふりすてた子の面影がちらついて、心が乱れる。夜ならばそんなこともなく、心を澄ますことができるので」。

いかにも、夜は昼間の欲望や焦燥や後悔をいっとき棚上げできる時間だ。ああしたい、こうしなければよかった、あの顔が憎い、こんなことで老後は大丈夫なんだろうか――しかしそんなことは明るくなってから悩めばよい。今は夜だ。あれやこれやの人間的煩悩は放っておけ。スマホにさわる必要もない。

『源氏』や『今昔』のような平安朝の文学の夜にはもののけが潜んでいる。ぶあつい闇の中には鬼が息をひそめていて、油断しているとひょっと襟首をつかまれて頭からむしゃむしゃ食われてしまうかもしれない。中世の文学の夜はもう少し人間的で、透明度が増す。鬼たちは山へ退いているようだ。寺に人が集まる。今夜は申楽があるのだ。薪の火の粉が舞うのに心浮きたち、人々はあれこれおしゃべりをしている。しかしそんなざわめきは演者の最初の一声、あるいは鼓の一撃でさっと静まり、ひとときの異界をまのあたりにする期待がみなぎる。「夜は、人音騒々なれども、一聲にてやがて静まるなり」(『風姿花伝』第三)。なんてみごとな一文なのだろう。

もちろん、屋内でひとに会うのもよい。相手の相貌も、衣装も、声も、夜の燈火のもとでは昼間よりずっと親密な色彩を帯びて目と耳に感じられる。「夜は、きらゝかに、花やかなる装束、いとよし。人の気色も、夜の火影ぞ、よきはよく、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂ひも、ものの音も、たゞ、夜ぞひときはめでたき」(『徒然草』第百九十一段)。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵を一瞬思い出すが、あちらには声や音は聞こえてこない。こちらは兼好法師が対しているひとの、ひそやかに語るその声ざままで聞こえてくるようではないか。

『陰翳礼讃』など持ち出すまでもなく、日本の古典は、夜を応援してくれている。古人と同じように夜を愛しているなら、昼夜逆転した学生も大目にみてやりたい、と強引に結ぶことにしよう。新年とは何の関係もない話で申し訳ありません。

(『風姿花伝』『徒然草』の引用はすべて岩波文庫による)。