(2018.12.16公開)
ロックグループ、クイーンの来歴をフィクション化した映画『ボヘミアン・ラプソディ』が空前のヒットとなっている。1970年代半ばから1990年代初め頃までの活動期間、日本にも多くのファンがいたとあって、リアルタイムで聴いていた世代を中心に話題に上ることもしばしばだ。御多分に漏れず、筆者も劇場まで足を運んだひとりである。
話題になるまで、正直クイーンのことなどすっかり忘れていた。「何度も泣いた」「音楽がすごかった」。そんな高評価を耳にして、それならとようやく腰を上げた程度だ。だがじっさい上映が始まるや、映画の世界に一気に惹き込まれることになる。そしてタイトルでもあるヒット曲「ボヘミアン・ラプソディ」が鳴り響いたとたん、聴いていた当時自分を取り巻いていた日常や、その頃の自分の感覚、感情といったすべてが、2018年の「今」のもとに投げ出されるように訪れたのだ。まさにある時期の空気が丸ごと襲ってきたと言っていい。
知性や意志を介さず、素朴な五感(この場合は聴覚)をきっかけに蘇るこうした記憶をマルセル・プルーストは無意志的記憶と呼び、知的な記憶と比べ得難く芸術の糧となると考えた。確かに思い出そうとして得られる断片的な記憶より、遠い過去の世界すべてが突如やってくるという体験は不思議であり貴重に感じる。だが、ここで考えてみたいのは、無意志的記憶の価値ではなく、自分というひとりの人間に起きる、数十年周期でのブーム再来についてだ。
誰もが泣いたという映画終盤のライヴエイドの場面、そしてボーカル・フレディの死に至る闘病の場面はもちろん感動的だったが、1975年に出たヒット盤『オペラ座の夜』の制作シーンは、にわかに男声とは思えない高音のコーラスの作られ方、誰の曲を入れるかをめぐる攻防など、完成されたアルバムを愛聴していたかつての日本の中学生には新鮮この上ないものだった。洋楽との出会いとしてすでに解散していたビートルズの洗礼を受けた後、現役で活動する海外バンドのレコードでは最初に手に入れたのがこのアルバムだった気がする。
映画の興奮冷めやらず、iTunes storeでサウンドトラックを買おうかと思ったが、思い直して当時聴き込んでいた『オペラ座の夜』と『華麗なるレース』という2種類のアルバム(以前のように「2枚の」とはいえないのだ)を選び、はたしてその選択はおそらくサウンドトラックより格段に濃い感興を呼び覚ましてくれた。じつに40年以上の時間を経て聴くアルバム始まりの重厚な電子音。歌はもちろん、ひとつの曲から次の曲に移るまでの間(ま)、重いギターが鳴り止んだ後優しく聞こえてくるピアノといったアルバムが構成する世界の隅々が追体験され、予想され、鮮やかに蘇る。もはやクイーンは再びやってきたマイブームとなり、2種類のアルバムを毎朝交互に聴き続ける日々が始まった。
しかし反復する体験は以前とまったく同じものにはならない。昔は聞こえるままに出鱈目に真似て歌っていた英語の歌詞が「ああ、そう言っていたのか」と今ならふと理解できるし、アルバム全体の構成やバランスといったものに自然に目が届く。イギリス人としてはかなりエキゾチックな容貌のフレディが、本名をファルーク・バルサラというザンジバル生まれのパールシー(ペルシャ系インド人)であり、有名になる前は「パキ(パキスタン野郎)」と侮蔑的に呼ばれていたことなど、中学生の自分は想像する余地もなかった。移民社会としてのロンドンを知識として知っている今と昔では見えるものが大きく違う。あの頃の自分は同じものをずっと素朴に、理屈抜きで受け取っていた。
もちろんある音楽体験に対して知識を持った方がいいと言いたいわけでもその逆でもない。同じひとりの人間ながら、長い時間を経て自分が以前の自分とはほぼ別人になってしまったと思えるほど視界が変っていることを、ひとつの体験を前にただ実感するのである。
超長周期でのマイブーム再来になりそうなことがもうひとつ。先日劇場のチラシを見ていて、思いがけない文字列が目に飛び込んできた。『霧深きエルベのほとり』。クイーンとの出会いよりさらに遠い過去に属する記憶である。若い世代が知らないのはもちろん、そうでなくてもほぼ忘れ去られているに違いないこの演目が数十年ぶりに再演され、宝塚歌劇で初春に催されるという。
じつは東京の小学生だったある時期、時々観に連れて行ってくださる方があり、筆者の第一次ヅカブームの牽引力となったのが件の作品なのだ。ドイツの港町を舞台にした船乗りと令嬢の悲恋が夢のように華やかな演出でくり広げられ、見終わってしばらくの期間ひとり現実から離れ、切なかった舞台の世界に没入し反芻していたのを覚えている。ほとんど忘却の彼方にあった昭和時代のこの作品について検索してみると、自分が見たのは1973年、昭和48年だとわかった。
脚本が菊田一夫だということも当時は知りもしなかったし、ハンブルクの港湾都市と自然豊かな田舎とのせめぎ合いもテーマであるらしいこの作品を十分理解していたとも思えない。その脚本を今宝塚歌劇でもっとも優れた演出家とひそかに評価している若手の上田久美子が発掘し、演出するという。何をおいてもチケットを入手したのは言うまでもない。
半世紀以上も生きていると記憶の種類も膨大になり、その濃淡もさまざまなため、時にあまりに長い周期での思いがけない再会がある。喜びと違和感が混じり合ったこの不意打ちは、短い過去しか持たない若い時期には味わえなかったことだ。『霧深きエルベのほとり』を観劇するのは年が明けてからだが、45年を経て、東京の小学生だった私が観た世界を時空間の隔たった地点に立つ私がどう受け取るのか、楽しみでもあり怖くもある。