(2018.08.19公開)
東京目白。学習院大学の構内に人知れず残る塚がある。キャンパスを闊歩する学生たちは、誰も気に留める様子もない。おそらくこの塚の存在を知らぬまま卒業していく学生も多いのではないだろうか。
写真に示したように、どこか前方後円墳にも似た形状で、円墳状の塚の上には、樹木が植えられている。
脇に東京都教育委員会の解説板があり、「東京都旧跡」とされて、以下のような記載があった。
乃木大将経営榊壇は明治43年(1910)3月、陸軍大将であり学習院第10代院長である乃木希典自らが設計、私費を投じて建設したものです。壇は全長約7メートル、後円部高約1.4メートルの前方後円形で、147個の礫石で築かれています。このうち番号の刻まれた80個は、小樽市、八丈島、小笠原諸島や、樺太、朝鮮半島、遼東半島、台湾など当時の四境から採集したものを用いています。
後円部の頂には、明治42年(1909)、この地に学習院校舎が新築され、その落成式で明治天皇が天覧した榊が植えられています。
この塚は日露戦争において激戦の二百三高地を指揮した乃木希典陸軍大将によって造られたものだったのだ。
乃木希典は、嘉永2年11月11日(1849年12月25日)に、長州藩の支藩であった長府藩の馬廻役であった乃木希次と壽子の三男として、江戸の長府藩上屋敷で生まれた。ちなみに現在、旧藩邸のあった六本木ヒルズの敷地内には「乃木大將生誕之地」と刻まれた碑が建っている。
そののち長府に転居し、元服後は源三と名乗る。萩藩の藩校、明倫館に通うなど学業に励み、第二次長州征伐では奇兵隊の一員として活躍した。それがきっかけとなり、明治維新以後は、軍人の道を歩むこととなり、明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙されたおり、名を希典と改めた。
その後、秋月の乱、西南戦争に従軍する。著名な話ではあるが、西南戦争では薩軍に連隊旗を奪われ、その自責の念から幾度も自刃を試み、熊本鎮台の参謀副長だった児玉源太郎少佐が、乃木の手にした軍刀を奪い取って諫めたといわれる。
日清戦争(1894~95)では、清国軍を撃破するという数々の武功を挙げ、男爵に叙せられた。そしてあまり知られていないが、明治29(1896)年10月、乃木は台湾総督に任じられた。1年余りではあったが、台湾の治安確立に努めたという。
そして日露戦争(1904~1905)は、乃木希典にとって人生最大の困難であったといっていいだろう。ロシアの旅順要塞の攻略は多くの犠牲を出し、乃木の二人の息子も戦死した。約5か月に及ぶ激闘の末、明治38(1905)年1月1日、要塞正面が突破され、旅順要塞の司令官ステッセルが降伏書を送付、1月2日に戦闘が停止されて、旅順要塞は陥落した。これによって、乃木の名声は一躍高まることとなった。
そんな乃木に勅命が下る。明治40(1907)年、明治天皇より学習院長を命じられた。皇孫である迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託そうとしたのである。
そもそも学習院とは、宮内省の外局として設置された国立学校である。前身は1847(弘化4)年3月、京都御所東側に設置された学習所である。1849(嘉永2)年に、孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて、学習院の名称が定まった。
明治維新後は、天皇の東遷に伴い、東京に移転。1877(明治10)年に華族学校学則が制定されたこともあり、神田錦町に校舎が造られた。創設時の学習院は、男子・女子の小学、中学の各課程を設けており、基本は華族の教育が目的であったが、士族や平民の入学も許可されていたという。
そして1884(明治17)年、宮内省所轄の官立学校と位置づけられることになる。1890(明治23)年に制定された学習院学則の第一条にある通り、「学習院ハ専ラ天皇陛下ノ聖旨ニ基キ華族ノ男子ニ華族ニ相当セル教育ヲ施ス所トス」として、皇室の藩屏たる華族を養成していくことが目的であった。
そのため、学習院における教育の特徴は、軍事教育と体操の重視にあった。游泳や武術、馬術などが学科課程に採り入れられており、1885(明治18)年に日本で初めて採用したランドセルも、軍隊の背嚢(はいのう)をモデルにしたという。
なお学習院の学科課程は、大正期に初等科(6年)、中等科(5年)、高等科(3年)と定められ、学習院高等科の卒業者は成績に応じて、帝国大学または他の官立大学に進学できた。進学者の約三分の一が東京帝国大学に進学したとされる。
さて御榊壇(おさかきだん)に話を戻そう。乃木が学習院院長となり、新校舎が落成したことに合わせて、明治天皇は学習院に行幸した。その行幸の栄誉を未来に伝えようと、乃木が考えたのが、この「御榊壇」の建設であった。
この「御榊壇」には、東京都の解説板にある通り、当時の大日本帝国の版図から持ち込まれた礫石が積まれている。その内訳は、御榊壇の傍らには、大正5(1916)年に第11代学習院長大迫尚敏による榊壇建立の来由を伝える碑と礫石の採集地を刻む碑がある。
樺太、朝鮮、遼東半島、旅順、台湾、東察加半島、ベーリング島、澎湖島、千島・択捉島、千島色丹島、千島捨子古丹島、千島バラムシル島、後志国、小笠原島、八丈島など、国内外の地名が連なっている。
例えば「三」と刻まれた石は、「朝鮮遮湖湾全椒島」と記されている。現在のこの島は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡南道)に存在し、当時の中華民国との国境に近い場所であった。
なぜ乃木はこうした国境から石を集めたのか。
それは明治という時代を通じて広がった、大日本帝国の版図を示すことであり、それこそが明治大帝の偉業を知らしめすものでもあったからであろう。
そしてこれら土地の多くは、乃木自身が戦いに行った地でもあった。
乃木は院長として厳格な教育を行い、学生には「質実剛健」を求めた。そのため中等学科、高等学科は目白移転を機に全寮制をとり、乃木自身も寄宿舎総寮部内の一室に起臥して、学生と寝食を共にし、その教育にあたったという。
乃木は校内にこうした塚を築くことで、学習院に学ぶ華族子女の心に明治天皇の偉業を、日々刻み込みたかったのかもしれない。
その後、大日本帝国の領域は、第一次世界大戦を経てさらに拡大し、南洋諸島もその統治下とした。そして第二次世界大戦までには、満州(中国東北部)や中国各地、東南アジアにも、その軍事的な力を基に実質的な「版図」を拡げていくことになる。
こうした版図拡大の出発点が、明治という時代であった。
いまでは誰も訪れることのない御榊壇。この小さな塚は、近代日本の功罪をいまも静かに伝えているのである。