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アネモメトリ -風の手帖-

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#144

壁は無言だが、扉は語る。
― 池野絢子

Vilhelm Hammershoei (1864-1916), Interioer. Den gamle bilaeggerovn. Albertines Lyst, Lyngby, 1888

(2015.12.27公開)

イタリアに留学していた二年間、私はちょっと特別な家に住んでいた。なにが特別かというと、大家さんのおばさんが芸術家だった。有名な芸術家というわけではないけれど、頼まれてイラストを描いたり、天蓋をデザインしたり、そういうことをして生計をたてていた。
私が間借りしていたおばさんの家も、これまた特別で、家のなかに扉がほとんどなかった。天井の高い、一続きの大きなリビング、台所とダイニング、おばさんとパートナーのおじさんの寝室はロフトになっていた。脱衣所にも仕切りはないから、シャワーを浴びるときは二人に一言声をかけておかないと大変なことになる。もちろんトイレの扉はあるにはあったけれど、それも磨りガラスだったので在中時は見ないようにするのがマナー。何とも開放的な家であった。
だから、その家にある唯一の扉らしい扉は、私が借りていた部屋の扉なのだった。住みはじめた最初の頃は、部屋にいる間は扉を閉めるようにしていた。けれどそのうち、勝手に扉が開くようになった。単純に立て付けが悪かったのである。それでもがんばって閉めていたら、そのうちおばさんの猫が、自分で扉を押して入ってくるようになった。それでしばらくたったころには、私は閉めるのをあきらめて、開けておくことの方が普通になった。こうして、その家には扉がなくなったのである。
当たり前のことだが、扉は、内部と外部を分節するものだ。ある連続する空間から一部を切り取るとき、その二つの空間の結節にあたるのが扉である。ただしそれは、結節点なのであって、壁のようにただ両者を隔てることだけが目的なのではない。扉は、それが開かれているとき、別の世界への入り口にもなり得るのだ。ドイツの哲学者ゲオルク・ジンメル(1858-1918)は、「橋と扉」(1909)というエッセイのなかで「壁は無言だが、扉は語る」と述べたけれど、この言葉は至言だと思う。つまり、壁が示すのは空間の断絶であって、それ以上ではない。けれど扉は、開け放たれているときはその向こう側へ人を誘うものだし、あるいは少しだけ開かれていたら、ついつい覗いてみたいという欲望を引き出す。そして、もしも閉ざされていたら、本来開くことができるはずなのにそれができないという事実によって、外界との接触を積極的に拒絶する意思表示にもなる。そのように、扉は、人間がある空間をどのように意味付けようとするのか——結合するのか分割するのか、その態度を如実に物語るのである。
ジンメルは、そのようにして自然界に存在するものを「結んだり、ほどいたり」する能力を、人間に固有のものと考えた。同じエッセイのなかでは、扉のほかに橋の事例が挙げられている。橋もまた、二つの隔てられた岸辺を結びつけるものであり、異質なもの同士の境界としての役割を持つ点で扉と通じる。ただし、橋が「結合」の意味合いをより強く帯びているのに対し、扉は人間の意志で閉じたり開いたりできる。したがって、扉において結合と分割は同じ活動の両側面である。
そういうわけで私は、おばさんの家に暮らしていたあいだ、夜寝るときと着替えるとき以外はほとんど扉を開けっ放しにして過ごした。一つの空間に内外を作らず、内側で一緒に暮らすためには、お互いに信頼関係が成り立っていないといけない。だから必然的に、私たちはほとんど家族のようにして暮らしていた。もちろん、その分プライバシーは尊重されないわけだし、私は何も常時外部に開かれた状態が最良だなどと言うつもりはない。もとより、「事物がつながりをもつためには、まずもって隔てられていなければならない」のだから。けれど、言葉も生活様式も異なる文化的環境のなかに放り込まれると、人間はどうしても自分自身で限界を作って、その内部に留まろうとする。だから、最初に暮らし始めた場所が、あの大家さんのところで良かったと私は心から思っている。扉というのは、人間の心のなかにもあるのであって、それは意志次第で、閉ざされもするし開かれもするのだから。

興味を持たれた方へ:
ゲオルク・ジンメル『橋と扉(ジンメル著作集第12巻)』酒田健一ほか訳、白水社、1998年
*「橋と扉」は以下にも邦訳があります。
ゲオルク・ジンメル『ジンメル・エッセイ集』川村二郎訳、平凡社ライブラリー、1999年
ゲオルク・ジンメル『ジンメル・コレクション』北川東子・鈴木直訳、ちくま学芸文庫、1999年

図版キャプション:
ヴィルヘルム・ハンマースホイ《室内 古いストーブ》1888年、カンヴァスに油彩、61×51cm、コペンハーゲン国立美術館蔵(出典:コペンハーゲン国立美術館ウェブサイト)