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#143

「小川千甕―縦横無尽に生きる―展」を鑑賞して
― 加藤志織

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(2015.12.20公開)

先日、じつに渋い絵画展を見てきた。現在、京都文化博物館で開かれている「小川千甕—縦横無尽に生きる—展」である。みなさん、この画家のことをご存知だろうか?千の甕と書いて、「せんよう」あるいは「ちかめ」と読む。小川千甕(1882〜1971)は、明治の末に現在の京都市中京区六角通で、書肆を営む小川家の次男として生を受けた。
子どもの頃から絵に関心を示し、まず長じると仏画師の下で徒弟として修行し、ついで京都高等工芸学校で教鞭をとっていた浅井忠が聖護院町に開いた洋画研究所で西洋の絵画技法を学ぶ。そこで後の日本美術をリードする洋画家、梅原龍三郎や安井曾太郎とも出会っている。仏絵師の見習いをしながら、同時に最先端であった洋画の修得に没頭する日々であった。
千甕の長い画業を見てみると、その様式の多彩な変化に驚く。おそらくその一因は、絵を学び始めた頃に、仏画と洋画という異なった絵画技法を学んだことにあるのかもしれない。今回の企画展にも、1890年代後半に描いた仏画(紙本墨画)はむろん、1906〜7年に制作した人物デッサンや風景のスケッチが展示されている。前者では仏の体を縁取る美しい線描が、後者ではモデルの身体の量感・立体感を表現するための陰影の付け方が素晴らしい。仏画、洋画、どちらの技法についても習熟していたことが伺える。
仏画と洋画を同時に学んだと聞くと何となく奇異に思えるが、当時、日本画家でありながら洋画に関心をもつ者は少なからずいたようだ。また、こうした状況は、今日のアカデミックな美術教育においてはごく普通にみられることである。日本画を専攻する学生も、西洋式のデッサンに取り組む。
さて、千甕は、浅井の紹介で1906年に京都市立陶磁器試験場の助手として採用され、1908年からは技師となって同試験場の図案部で陶磁器のデザインにたずさわるようになるが、その2年後の1910年には職を辞して上京し、東京で生活のために雑誌の挿絵や児童書に載せる漫画などを手がけるようになる。千甕は、かわいらしさと滑稽さに溢れる絵を描いた仙?(1750〜1837)の作品を好んだ。そんな彼が漫画を描くことは自然な流れであったのかもしれない。
そして1913年4月から1914年1月にかけて、当時のパトロンから資金援助を受けて渡欧し、パリ、ロンドン、ドイツ、イタリアといった国々を巡り、西洋美術の名作はもちろんさまざまな文物から大きな影響と刺激を得る。旅の様子はその際に残された文章やスケッチが伝えてくれる。たとえばフランクフルトやパリの風景スケッチ、イタリアで見た14世紀初頭に活躍した画家ジョットの作品についての感想などがそれである。帰国する前には、滞欧中の安井曾太郎と共に印象主義の巨匠ルノワールのもとを訪ねてもいる。
その後の千甕は、1915年の珊瑚会の結成に関わり、日本画だけではなく、洋画や漫画の制作においてもそれまで以上に多面的な才能を発揮する。そして最終的にはそれまで身につけてきたさまざまな技術を自由に表現できる南画へとみずからの絵画様式を修練させて行く。
本展のサブタイトルに「縦横無尽に生きる」と書かれているが、これは人生についてだけではなく、千甕の絵画様式についても当てはまる。仏画との出会いから始まり、浅井の下での洋画学習、陶磁器のデザイン、漫画制作、ヨーロッパでの経験、そして南画。こうした脈絡がないようにも思える和と洋との出会い、異なる表現方法の邂逅がひとりの画家にどのような影響を及ぼしたのか、その変遷について観察できることも「小川千甕—縦横無尽に生きる—展」の魅力であろう。晩年には文人画で有名な富岡鉄斎(1837〜1924)のごとく画風に変化する千甕の絵画は、基本的には日本画の文脈に位置づけられるべきものであろうが、上述したようにこの画家自身は洋画の影響を少なからず受けている。その跡に注目しながら作品を鑑賞してみると一層面白いのではないだろうか。
「小川千甕—縦横無尽に生きる—展」は京都文化博物館で2016年1月31日(日)まで。