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アネモメトリ -風の手帖-

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#216

比叡山への路
― 石神裕之

坂本ケーブル

(2017.05.21公開)

新緑の季節。ケーブルカーで坂本側から比叡山を登る。
緑の回廊のなかを、時おり望むことのできる琵琶湖は初夏のきらめきに満ちている。

今年はこの「比叡山坂本ケーブル」が建設されて90年にあたる。

昭和2 (1927)年3月15日、比叡山鉄道株式会社が開設した比叡山鉄道比叡山鉄道線(通称:比叡山坂本ケーブル)が開業した。全長2,025mで、現在では日本最長のケーブル鉄道とされている。

いま滋賀県県政史料室(滋賀県庁新館3階)では、「鉄路の表参道~比叡山坂本ケーブル~」と題した企画が開催されており、所蔵する平面図や起業目論見書などの史料類を見ることができる(2017年5月25日まで)。

本展示の広報ポスターにも使用されている『琵琶湖畔坂本ケーブル(比叡山鉄道株式会社)』と題された当時のパンフレットの表紙には、比叡山延暦寺とその門前町として栄えた坂本とを軽快に結ぶケーブルカーの路線が描かれており、さらには比叡山の最高峰、大比叡(848.3m)まで伸びるケーブルカーの予定ルートも記されている。

比叡山をいわゆる「行楽地」として、観光資源化する試みがこのころより始まったことがよくわかる。

さて、この比叡山におけるケーブルカーの建設は、実は京都側の方が早かった。

大正14(1925)年12月、京都電燈会社が叡山鋼索線(西塔橋[現 ケーブル八瀬]~ 四明ヶ嶽[現 ケーブル比叡]間 1.3㎞)を開業した。

その後、昭和3年10月には、同じく京都電燈が比叡山空中ケーブル(高祖谷~延暦寺間0.6km)を開業し、比叡山への京都側からの新たなルートがひらかれたのである。

なお現在では、戦後開通した「比叡山ドライブウェイ」と「奥比叡ドライブウェイ」が加わり、バスや自家用車で比叡山に登ることも可能となった。

世界文化遺産である「比叡山延暦寺」を訪れる観光客は、滋賀県の観光統計調査では48万5千人(2014年)を数えるという。

大正末年からの京都側、滋賀側双方のケーブルカー建設競争は、こうした観光客誘致のはしりともいえるが、そもそも比叡山へは、京都側、滋賀側いずれから登るのが「正しい」のだろうか。

俳人高浜虚子の写生文に「叡山詣」という一文がある。明治40(1907)年3月に虚子が比叡山を訪れ、延暦寺に逗留しつつ、一山の諸堂宇を見学した紀行文である。

まだケーブルカーもない時代である。

虚子はまず京都に赴き、修学院近く、山端の平八茶屋で川魚料理を食べて、こう述べている。

叡山までは五十丁の登りぢゃそうな。明日大津から坂本に行く事に極めて荷物などは宿へ置いて来たのだが、こゝ迄来て又引きかへすのは馬鹿馬鹿しいやうな気持ちもする。

『定本 高濱虚子全集〈寫生文集一〉』第8巻、毎日新聞社、1974年

そして翌日虚子は、坂本から「五十町の坂を登つて」、根本中堂の下にあった元学寮の宿院に着いた。

明治初年の廃仏毀釈の影響もあって、荒廃した延暦寺の様子がありありと描かれたこの作品は、とても示唆に富む内容を持っているが、それはまたの機会に譲るとして、虚子がなぜ坂本から比叡山を登ったのか。

それは、それが正式な参詣ルートだったからである。

坂本には比叡山の鎮守たる「日吉大社」位置し、天台宗の長、天台座主の住まう屋敷(滋賀院門跡)や宗務を掌る寺務所などが存在した。

また「里坊(さとぼう)」と呼ばれる、山上で長年修業した老僧が、天台座主より坂本での常住を許されて構えた僧坊が軒を連ねていた。これを「里坊を賜う」と言い、里坊には余生を穏やかに過ごす設えとして、よい庭園が多いとされる。

いわば比叡の山上が修行の場であるとすれば、山下の坂本は宗務の場であった。

比叡山延暦寺が編集・出版した『比叡山』(1954年)という本に、延暦寺へ登る主要な登山ルートが記されている。

表参道「坂本-東塔[根本中堂辺](本坂) 約20丁 2km強」
裏参道「修学院-東塔[根本中堂辺](雲母坂) 約50丁 4km強」」

とあり、参道には「表と裏」があったのだ。その説明を読んでいると、近江側は「東坂本」、京都側は「西坂本」と呼んでいたと記されている。

とくに「西坂本」は、修学院の赤山権現社(赤山禅院)を登り口とするものであり、この参詣道を「雲母坂」と呼んだ。ちなみに本学通信教育部の補助教材『雲母』はここから名をとっている。

この坂はかつて、延暦寺の山法師らが、山王七社(日吉大社)の神輿を担ぎあげて京洛へと強訴の「神輿ぶり」をした道であり、北嶺回峰(千日回峰行[せんにちかいほうぎょう]ともいい、比叡山での修行の一つで、比叡山の堂宇を巡拝する行を1000日間〈実際は975日〉行う修行)の行者が、京洛の神社仏閣を巡拝するとき通うのも、この道である※。

※回峰100日のうちで、必ず1日行うものを「京都切廻り」、7年目の第900日目から行うものを「京都大廻り」と呼び、比叡山中のほか、赤山禅院から京都市内を巡礼する。なおこうした回峰行は3月末から7月初めにかけて主に行われている。

虚子もこの雲母坂の路を聞いて、先述のようなことを記したのだろう。

比叡山へのルートは他に、
「北白川-東塔[無動寺渓](北白川坂) 約60丁 6km強」
「坂本-東塔[無動寺渓](無動寺坂) 約20丁 2km強」
「八瀬走出[やせはせだし]-西塔[青龍寺](走出路) 約10丁 1km強」
「八瀬走出-西塔[釈迦堂辺](走出路) 約20丁 2km強」
「坂本-横川[元三大師堂辺](飯室路) 約35丁 4km」
「坂本-横川[元三大師堂辺](大宮渓路) 約45丁 5km」
「仰木-横川[元三大師堂辺](仰木路) 約20丁 2km強」
「八瀬走出-横川[元三大師堂辺](走出路) 約30丁 3km強」

などもあったとされ、三塔十六谷※と呼ばれる比叡山に点在する堂塔を巡拝するためには、様々な道筋があって、その険しい路を登り切る必要があったのである。

※比叡山の諸堂塔のまとまりを指し、【東塔(とうとう)】東谷、南谷、西谷、北谷、無動寺谷[根本中堂や大講堂など]。【西塔(さいとう)】東谷、南谷、北谷、南尾谷、北尾谷[法華堂や常行堂、釈迦堂など]。【横川(よかわ)】般若谷、香芳(かぼう)谷、戒心谷、解脱(げだつ)谷、兜率谷、飯室谷[横川中堂、安楽律院など]の区分がなされている。

最澄が延暦7(788)年に一乗止観院(現・根本中堂)を建てて以来、この山では幾千の僧が学び、法然、親鸞、一遍、日蓮、道元など新たな宗派を開いた高僧らも比叡山で修業した。

私たちは、いま比叡山を観光地のように捉えがちであるが、いまもむかしも、ここは修行の場なのである。

それが観光資源とされた背景には、経済的な事情を背景とした比叡山の側の思惑もあった。とくに戦後の開発の経緯については、研究も進められている※。

※卯田卓矢「観光化に伴う聖地の維持・管理をめぐる交渉過程:戦後の比叡山を事例として」『人文地理学会大会 研究発表要旨』 2012年

ここではその是非について論じるものではないが、観光地化された現在であっても、不滅の法灯は点り続け、厳しい修行は続けられている。

ちなみに今年は、北嶺回峰行の祖である相応和尚(そうおうかしょう)が没して1000年にあたり、国宝殿で特別展※が行われているほか、法要も行われる。こうした機会に、真の比叡山の姿を知るのもよいのではなかろうか。

※「建立大師1100年御遠忌記念「北嶺回峰行の祖 相応和尚」展」延暦寺国宝殿、6月25日(日)まで。http://www.tendai.or.jp/daihoue/index.html

さて話をケーブルカーに戻そう。

第二次大戦末期、この「比叡山坂本ケーブル」は海軍に接収された。

比叡山山頂に滋賀海軍航空隊のいわゆる「ロケット式特攻機」、「桜花」の発射基地が建設されることになったのである※。

※『しがけんバーチャル平和記念館』「比叡山山頂の「桜花(おうか)」発射基地」
http://www.pref.shiga.lg.jp/heiwa/tenji/chiiki_taiken10.html 2017年5月17日閲覧

ケーブルカーは、その資材運搬に利用された。

基地は7月には完成し、発射実験も行われたといわれるが、戦後米軍により破壊され、現在その形跡は残っていない。

いまケーブルカーから見える美しい琵琶湖の眺めにも、そうした悲しい歴史の一コマが秘められている。