(2017.03.26公開)
つい先だって、本学の卒業式があった。私が勤務する芸術教養学科からも、90名を超える卒業生が巣立っていった。
卒業式の後のパーティでは、レポートやそれへの講評文の話をいろいろな方とした。自分が書いた講評文から、確かに学んでくださっていることが判るのはとても嬉しいことだった。この日の証書授与式で話したことを、少し思い出して書いてみたい。
まったく知らない人は、芸術教養学科という名前から、芸術史的な基礎知識や批評のあり方を学ところのように思うかもしれない。もちろん芸術史講義といった科目もあるのだが、最終的にはいわゆる「芸術」とは違った方に学びは進んでいく。
昨年秋に全面的にリニューアルされた「芸術教養学科web卒業研究展」のサイトには、卒業生たちが取り上げたさまざまなプロジェクトが掲載されている。ここには、「芸術作品」や「作家」はほとんど出てこない。さまざまな人々の営みであり、プロジェクトであり、場であるようなもの、そういったものが観察され、考察されているのである。芸術教養、というくくりでこういうことをやっているのは、なかなかラジカルなことなのだと思う。一つは、「芸術」であることが自明であるようなものを取り扱っていない、というところである。もう一つは、創造の秘技を持つ神秘的な芸術家のような人は出てこないということである。
いわゆる特定の作者が作り上げるものというよりは、多くの人が関わりあいながら生まれるものも取り上げられる。もちろんそこで創造性や機知は活きるのだけれど、作家の内面の深奥が問題になるようなことはない。そういうのより、むしろクリアカットなデザイン的な視点で出来事を見ていくのである。
ただ、今の芸術教養学科の視点で捉えていないものもあるように思う。先に大きな強い作家についてあまり触れないことについて書いたが、私たちの生活場面の中にいる、ちいさな主体たちのことだ。
うつなどで何もできない状態に陥った人が回復して行くときには、ちいさな表現であっても、できることを一つ一つ確かめていくことが、その人にとってはかけがえのない過程となる。そのようなぎりぎりの場合でなくとも、一人一人がなにかを作り出すとき、その作り出されたものが世の中的な機能や役割をもちうるだけでなく、作り出す場面において人に帰ってきているものがきっとあって、それもまた大事な意味があるように思うのだ。
イベントを作り上げるにせよ、何か造形物を創るにせよ、十七文字の短詩を書き付けるにせよ、人がなにかをつくるときには、対象や素材との対話があり、それがその人にとって、もたらしているのか。外からみてモチベーションを論じるのではなく、その創造行為の豊かな細部を、試みる人の側から眺め、経験し、記述することが次のステップになるだろう。それは単に共感的あればいいというのではなく、参与観察や聞き書きといった学的な技術によって、質の高いものにすることができるはずだ。
イベントにせよ、場づくりにせよ、それに関わる人はその一連の出来事からさまざまなものを受け取っているだろう。それがその人の生命を賦活しているのに違いない。芸術であることが自明でないものを、芸術を語る目で見るとき、そしてそれがこの世の中で生き生きと動いているさまを見ようとする時、この「内側から」のアプローチは、プロジェクトの「外側から」の客観的な観察・分析を補う、もう一つの視点として欠かせないものだと思う。
身近な者が病者となった今、その回復に並走する中で、そうした表現について私も考えていきたいと思っている。
芸術教養学科web卒業研究展 http://g.kyoto-art.ac.jp