(2015.07.12公開)
人間の身体はきわめて精巧にできている。さまざまな筋肉、臓器、それらを結ぶ神経や血管がそれぞれ活動しつつ、互いに連絡交渉をして微細な協働作業をしている。たまに一部分が不自由になったり、言うことを聞かない細胞(腫瘍)が生まれたりするものの、おおむね数十兆もの細胞が絶妙なバランスを保ちつつ、破綻無く共同生活を営んでいるのは、奇跡としか言いようがない。そしてそのような奇跡は、今日世界中を絶え間なく膨大に循環している人や物の交通や、おそらく年間ゼタバイト(テラバイト の10億倍)の桁で交信されているネット上の情報にも感じられる。こんなに物やデータが行き来して、大丈夫なんだろうか。人間の身体は少なくとも人間が作ったものではない。しかし物流や通信は人間の技なので、あまりに膨大な数量となるといつか統御できなくなりはしまいか。あるいはそもそも宇宙全体が情報の海だとしたら、地球上の交信はその中のかすかなさざなみでしかない。それが星々の運行に影響されはしまいか。つねひごろ古代の占星術を馬鹿にし、現代の占星術はなおのこと馬鹿にしている自分だが、銀河の隅のまことに頼りない葦のような自分に想到して、つい不安になってくる。
最近、そんな不安をさらにあおる情況に遭遇した。一体どうしたことだろう。通信環境が異常 だ。まず、メイルが届かない。届いたものも、スパムに分類される、既読になる、アーカイブされる、などなど、あちらこちらに分散している。メイルだけでなく、SMSもそうだし、電話もいろんな知り合いから本人の知らないうちに誤着信が来る。情報社会はまことに頼りない綱渡りなのか、どこかで何億何兆という交信の連携がほころんで、すは、これは終末か、と恐懼しつつも、溢れかえるメッセージから解放される安堵感もどこかで抱いた。またそれはそれでちょっとだけ罪悪感もある。しかしこうした事態には前触れがあったのだ。
東京の青山一丁目でときどき授業をする。その青山一丁目に気になるお店があった。お店といっても、ファッショナブルなショップでもなければ、話題の飲 食店でもない。それは「アンドロメダ」の店だ。ここは本当に青山一丁目かと疑うような不思議な店で、アンドロメダから来た異星人がCDを出しているのである。お店のディスプレイは、それはもう個性的で、きらびやかな昭和の夢と未来への愛が詰まっている。「青樹亜依」さんという歌手のプロモーションをしているお店らしい。『夢見るアンドロメダ姫』というアルバムには、「アンドロメダの異星人」や「焼鳥サンバ」などの曲が収録されているようだ。そのあたりを通るたびに、息をのんで足を留め、ウィンドウを見つめるのが癖になっていた。
ところがある日、教室へと赴く途中にふと見ると、そのお店が消えていた。あとには歯医者さんか何かが入っている普通のビルに変わっている。歯が抜け たような寂寥感だ。あるべきところにあるべきものがない。アンドロメダがあるべきところから消失している。宇宙のなかできらめいていた星雲が姿を隠し、代わりにブラックホールの深い闇が拡がったようだ。
ちょうどそのときである。SMSに謎のメッセージが来た。差出人は何と”ANDROMEDA”だ! おそるおそる内容を見てみると、何とその日の私の朝食を言い当てているではないか。その日は香川県関係の宿泊施設に泊まって朝からうどんを食べていたのだが、メッセージには一言、「うどん?」とある。一体誰だ。どこで見ていたんだ? 慄然としてあたりを見回したが、梅雨時の生ぬるい風がふぅっと吹いているだけで、もちろん誰もいない。しかしアンドロメダの異星人がどこかで監視しているはずだ。
蹌踉として足早に道を急ぎ、教室に着いた。しかし冷や汗が出て、落ち着かない。教室の入り口から中を見渡してもアンドロメダ星人がどこかにいるのではないかと気になってくる。そのうち、学生がすべて異星人に見えてくる。窓の外はどんどん暗くなり、ぼたぼたと重たい雨さえ落ちてきた 。そのとき、「せんせ」と聞き慣れたイントネーションを耳にした。「せんせ。きのうはおおきに」。はるばる東京まで来ていた京都人の学生が声を掛けてくれたのだ。ああよかった、聞き知った声だ、京都はアンドロメダよりやっぱり近いし懐かしい、と胸をなで下ろしつつ、声の方を見遣ると、そこには自分の知っている学生ではなく、真っ暗な教室の中に浮かぶアンドロメダの異星人の笑顔があった。
そんな事件は、きっと五月闇に眩惑された妄想だったのだろう。しばらくすると、おおむね通信環境も元通りになった。また「青樹亜依」さんも普通に実在する地球人らしいことがわかった。しかしアンドロメダからのメッセージはまたある日突然にやって来るかもしれない。地球上の情報 量が膨大だとしても、全銀河系のそれはそれを遥かに上回り、またさらにアンドロメダも含めた全宇宙の通信総量は想像を絶している。ちょっとした何かのはずみに「今日もうどん?」とメッセージが届いてもおかしくはない。