(2014.11.30公開)
去る11月23日、岡山県井原市の山間の集落、仁井山に6年に一度行われるという「式年神楽」を見に行った。仁井山は「風を知るひと」でも取り上げられている仁城亮彦さんが住まわれているところで、通信教育部の「芸術環境演習」というスクーリング科目で毎年お世話になっている。この11月2日にもスクーリングの一環として、村の神社で行われる「宮神楽」を鑑賞させていただいた。
この「宮神楽」は、仁井山も含まれる青野地区全体の秋祭りで毎年行われているもので、ダイジェスト版だということだが、それでも夜の9時から深夜の2時くらいまでの長時間にわたって舞われる。6年に一度集落にまわってくる荒神様の「式年神楽」では、「宮神楽」では舞われないようなものも含め、より長時間にわたって行われるという。なかでも太夫がトランス状態になって村のこの先6年を占う神事はこの「式年神楽」でしか見られないという。
仁井山の式年神楽は、神社の境内ではなく、村の選果場で行われる。スクーリングのときに宿泊させていただいている、鉄骨と波板でできた、がらんとした大ぶりの建物だ。仁城さんのお話しでは、ここで行われるのにも意味があるようだ。この選果場のかたわらに、小さな観音堂と荒神様の祠が並んで建っている。選果場というのは、村の共同空間である。みんなで使う場所なのだ。かつてはこの荒神様の前の田が、共同の場としてあったらしい。そしてそこで神楽は舞われ続けてきたという。いまはそこにこの選果場が建っているというわけだ。本来神楽は露天の田んぼで舞われたということだから、選果場の室内で舞われるというのは、風景としては随分違ったものになってしまっているように見える。だがその場が荒神様との関わりも持ちつつ、今も村の共同空間として息づいているということは、とても意義深いことのように思われた。
いつもはがらんとしたこの空間に、四方に青竹が立てられた領域が組まれる。これが神殿(こうどの)と呼ばれるステージとなる。観衆はそのまわりに敷かれた畳に座ることになる。なにぶん晩秋の夜更けのことであるから天蓋があるとはいえ冷え込む。集まる人も慣れたもので、多くは座布団や毛布を持参している。どこにいたんだろうと思うくらいに子どもの姿も多く見られる。
いつもの宮神楽の演目は「榊舞」「猿田彦命の舞」「国譲り」「素戔嗚命の大蛇退治」といったものからなる。これだけで、5時間くらいはかかるのである。「榊舞」はオープニングの神事然としたもの。「猿田彦命の舞」は、派手な仮面と衣装を身につけ剣を振るっての勇壮な舞である。メインの「国譲り」「素戔嗚命の大蛇退治」は神能と呼ばれる劇形式になっており、それぞれいくつかの場面からなっている。基本的には仮面劇だが、先の幕では仮面で演じられていた神がクライマックスの幕では素顔をさらして舞われたりする。これらの神能はとても起伏に富んだ構成となっていて、時に爆笑を呼ぶ漫談のような場面もあれば、激しいビートに乗せてアクロバティックな動きで剣を戦わせるシーンもある。「国譲り」で、天孫に抵抗する出雲の大国主命の息子建御名方命(荒鬼)が朝廷側の二柱の神と戦う場面(鬼退治)では、その激しさは絶頂を迎える。その高揚感は凄まじいものである。この「国譲り」「素戔嗚命の大蛇退治」の面白いところは、途中で舞台上の神々から「福の種」という菓子の振る舞いがあることだ。これは結構乱暴なもので、大量の餅、みかん、スナック菓子といったものが、神殿から客席へ延々と投げ込まれる。夜遅いというのに子どもたちが勇んで来ているのは、舞のかっこよさもさることながら、この「福の種」が楽しみであるらしい。空中を舞う菓子を巡って、楽しげな争奪戦が戦われるのである。これは宮神楽でも今回の式年神楽でも変わらぬ風景であった。
今年の式年神楽では、劇形式のものとしては「岩戸開き」「田植え」が加わった。前者はお隠れになった天照皇大神を岩戸から引っ張り出す物語だが、天宇津女命の舞よりも、手力男命の「音楽さん(太鼓を叩きながら歌う係)」とのやりとりも含む面白おかしい芝居が中心となっていたのが意外だった。「田植え」はそれこそ田が舞台ののんびりとした舞台。この頃には眠気が頂点に達していて、時間の感覚もあやふやになってきていた。
こうした劇形式のものの他に、「白蓋(びゃっかい)神事」「五行幡割り」「託宣神事」といった神事然としたものも執り行われた。
「榊舞」に続き冒頭近くで行われた「白蓋」では、神殿の中空に吊るされた四角い箱状の紙細工が、太鼓と歌に乗って上下したり、激しく揺動したり、紙吹雪を散らしたりする。最初建築物の一部のようなしつらえであった「白蓋」が、空中を生き物のように動き回る様は不思議だった。そしてその「白蓋」の中から取り出されたおめでたい意匠を凝らした長い紙細工が、神殿の四方に向かって張られる。色は清い白であるが、運動会の万国旗のようでもある。そうして神殿に象徴的な天蓋が作られるという、一連のパフォーマンスとインスタレーションである。神が天からその場に降りてきた、これから神楽が始まるのだということが、実感される空間劇であった。
みんながもう朦朧としかけている終盤に、「託宣神事」は執り行われた。神殿を斜めに横切るようにして架設された、大蛇を模した大縄を、太夫はじめ二人の神職が力の限りぶん回す。ひとしきり回すとその大縄に沿って身体をくるくる回しながら位置を入れ替えてまた大縄をぶん回す。これをだんだんペースを上げながら繰り返すうちに目がまわる。意識も定かでなくなってくる。その時に神が人に移るのだろう。崩れ落ちる太夫を支え、椅子に掛けさせると、その口からこの先数年のこの村のありようが語られる。今回は何事もないおめでたい内容だったようで、居合わせた人々は一様に安心していた。7年前の前回は禍事の予言があったともいう。
村のコモンズで夜を徹して執り行われる音楽と踊りと劇。その旋律とリズムはこの小さな村という空間を突き抜けて、より広いアジアとつながっているように思われた。この式年神楽は一つの集落で神楽社を迎えて行うものなので、地区全体でする宮神楽よりも規模は小さくなりそうなものだが、見知らぬ人も含めいつも大勢の人が詰め掛けるという。かつて住んでいた人、その縁者といった人が、6年に一度のこの機会に遠くから集まってくるらしい。私もそうした人の一人だったのであろうし、その中にはすでにいない人もいたのかもしれない。ここでも何か村の閉域を超えるものがあったように思った。
6年に一度の大変貴重な機会だったわけだが、こうした式年神楽は毎年どこかの集落で行われている。秋祭りでの神楽もいろんな神社で行われるわけで、総数としては大変な数舞われているようだ。今回拝見した「北山社」も、秋にはほとんど毎週、場合によって一日にいくつか掛け持ちで舞うこともあるとのこと。大変な忙しさである。こうした鍛え上げられたプロフェッショナルなグループが、備中地方には60程もあるという。こういう伝統芸能は後継者難だったりするものだが、若い舞い手も多く子どもたちの人気も(「福の種」のおかげもあって?)高いようだ。客席で一緒に身体を動かしている小学生も見かけたし、激しい立ち回りで大いに沸かせた素戔嗚命も、子ども神楽の出身だとのことだった。
こうした神楽を迎えるための当番システムなどが、地域コミュニティに埋め込まれており、準備段階でも人々相互の関わりを賦活する。そして当日のその場所には高度な技とそれがもたらす恍惚とした時間がある。そしてこの世ならざるものも、ほんの少し垣間見られる。今日のコミュニティアートが改めて作り出そうとしているものが、こうしたところにはすでにあるのかもしれないと思った。