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#178

音楽のなかの時間
― 下村泰史

音楽のなかの時間

(2016.08.28公開)

一秒というのは、どのくらいの時間だろうか。
私たちが生きている、時計的な時間のとりあえずは最小の単位である。これより短い時間というのは、普通の生活にはそう現れないように思われる。テレビでオリンピックの競技などを見ていると、コンマ00何秒というような極めて短い時間が現れるが、それは厳しいスポーツの世界のことであり、お茶の間の時間とはまったく異なるようにも思われる。
さて、一秒というのは、どのくらいの時間だろうか。
一秒とは「いっち…にぃ」とすこしゆっくり数えてみる、その1と2、2と3の間くらいの時間だろうか。こうしてみると、一秒というのが、思っていたのよりも少し長く感じ取られたりもする。一日の、あるいは人生の長い時間を形成する、一番小さなその単位も、まじまじと覗き込むと、それなりの長さというものを当たり前だが持っている。
音楽の中の時間を考えてみる。楽譜の左上に、♩=60といった表示がある。これは、一分間に四分音符が60個入るテンポ、ということである。つまり一拍が一秒ということである。実際このテンポでメトロノームを動かすと、ものすごくゆっくりであることがわかる。
この倍の速さ、つまり♩=120くらいにしても、ミドルテンポやや遅めという感じである。この場合一拍は0.5秒ということになるが、これも誰でもけっこう余裕で手拍子したりできるリズムである。
ロックのような8ビートであれば、同じ♩=120でも事実上の一拍(八分音符♪)の時間は0.25秒ということになる。これも私たちが音楽の中で普通に耳にしている、そんなに早くないリズムである。コンマ何秒というのも、そんなに捉えられない時間ではないことがわかる。黒人音楽系の16ビートであれば、リズムの単位(十六分音符)はさらに半分の長さになる。ビートの最小単位は0.125秒。これでもわりとゆったりめのリズムである。
実際には全ての分割された音符が同様の長さを持つわけではなく、ところによって前によったり後ろによったりする。これは「ノリ」「グルーブ」を生み出す重要な要素である(※)が、この動きは、これまで追ってきた四分音符から十六分音符に至る分割よりもはるかに微細なものである。約0.1秒という時間を、リズムの中で私たちは普通に経験しているが、それよりずっと短い、コンマゼロ何秒、あるいはコンマゼロゼロ何秒という微細なものだ。しかしこれもまた、「ノリ」として私たちは普通に知覚しているわけである。
もっとも、目の前に突然「0.125秒」「0.00某秒」といった「時間」がひとつ提示されても、私たちはそれが何事かわからないだろう。これが「連なり」をなすとリズムが生まれ、その全体の中ではこの微細な断片が、明晰に把握されるのである。
この微細な単位はもとから「0.125秒」などといった客観的な自明さを持っているものではない(もちろんプログラムされている場合も多いのだけれど)。音楽全体のテンポの揺れのなかで、それは同一性をもちつつ伸び縮みするのだが、それも私たちはほとんど自然に了解する。
これまで拍子について簡単な考察を加えてきたが、メトロノームにリズムを感じないように、実際にリズムが生まれるには、強弱のうねりや複数の音色など、いろいろなものが関わっているので、本当はそんなに簡単に言えるものではない。本当に生き生きとしたリズムは、そうしたピコピコした時間分割だけでは説明できない複雑ななりたちを持っている。
といっておきながら全然別の話をするのだが、まるでビートのない音楽というのがある。一つには、インド宮廷音楽のアラーブや、日本民謡の馬子唄のような「拍節性のない」音楽というのがある。これらは明確な拍子というものをもたないが、メロディックな動きはあるので、リズムがまったくないわけではない。もう一つは「ドローン」(無人機とは関係ありません)と呼ばれるものである。これは、延々と続く長い音からなる音楽である。これを聴く時には、リズム的な、パルスによって分割された時間というものはまったく意識できなくなる。耳は音色の微細な変化、音の表面に並んでいる粒子の密度やその形の変化といったものに敏感になっていく。私たちはふつう、音楽の速さを先に見てきた「拍子」「テンポ」で捉えるくせがついているが、ほぼ一定の長音が延々と続くドローン・ミュージックにおいても、速度を感じる。音のテクスチャの流速のようなものを感じ取ることができるからである。音の粒立ちが空間の中に現れては消えていく速度というものがある。区切られることのない風や水にも速さがあるように、こうした音にも速度があるのである。この速度は残響の深さなど、音のテクスチャに影響を与える要素によって随分変わってくる。音楽が現れてくるのが、発音体そのものではなく、空間に由来するものだということに気づかされる。そしてこの音の相やテクスチャの変化といったものは、ドローン・ミュージックだけでなく、もっと普通に聞かれるビート音楽においても生きたリズムが生まれるときに重要な役割を果たしている。
ビートは一連のものとして感じられる。これは鎖のように時間軸上につながっているものとして感じられる。一連のビートを叩き出している楽器が同じ、たとえばハイハット・シンバルやスネアドラム、であってもそれらは一列になった音として聴取される。一方、ディレイなどを用いてきわめて短い時間を介してまったく同じ音が鳴らされた場合、私たちは「複音感」としてそれを感じる。空間に二つの音が立ち現れるような印象を受ける。ここでは空間的なものと時間的なものが相互乗り入れしているようにも感じられるのである。
音楽を聴く、あるいは音楽を鳴らすなかでは、日常のなかの時間とは随分ちがう「時間」が生きて動いている。音楽が時間芸術であるというのは、おそらくそういう時間に触れるものだということなのではないだろうか。単に始まりから終わりまで一定の時間を要するということではなく、時間の流れそのものを味わう経験なのである。
そういう意識をもって、冷蔵庫や換気扇に耳を傾けると、それらが(もののたとえではなく)歌っていることがはっきりわかる。聴き手によって音は、初めて生きて動く音楽として経験されるのだ。
ここからは妄想になるが、時計が発明される以前は、人々は時間をそのように音楽的に感じていたのではないだろうか。それは全体的でありながら、相当な時間的解像度をもつ経験だったのではないだろうか。そうした感覚が本来的なものだというつもりはないが、そういう「聴取」の可能性には、いつも心を開いていたいものだと思う。

(※)ビートの揺らぎがグルーブを生み出す例としてよく持ち出されるのが、ローリングストーンズのR&Rであるが、八分音符の列が作り出す8ビートにグルーブを吹き込むのは、前後の揺れよりも、八分音符群の強弱のうねりであり、リフ全体のアーティキュレーションである。ストーンズの演奏は結構正確である。逆にストーンズ風の「ルーズさ」をビートの揺れで出そうとすると、大抵失敗する。